待避線全景

回送電車の女 第二部




 三十六

 S電車基地の二階にある運転手控室の窓から何気なく外の様子を見ていた睦夫は見たことのある人影が建物に近づいてくるのに気づく。
 (あれは新条署の女警察官じゃないか。確か水島良子と名乗っていた筈・・・。)
 睦夫は新条署の警察官が他の運転手と接触しないように慌てて階下に降り、偶々出遭ったのを装うことにする。
 「あれっ。貴方、この間の新条署の方じゃないですか?」
 「あらっ。この間は聞き込み調査に協力頂いてありがとうございました。」
 「今日も何か・・・?」
 「あ、ちょっと確かめたいことがありまして。ちょうど良かったわ。また少しお話出来ますでしょうか。」
 「ああ、私でよければ。じゃ、またこの間と同じ職員食堂へ行きましょうか。」
 睦夫は首尾よく良子を他の職員にはアプローチさせることなく誰も居ない職員食堂の隅へ案内することに成功する。

 「あ、出来たらお名刺、頂けますか?」
 「あ、名刺ですか。失礼しました。はいっ。」
 良子は出来れば名刺は出したくなかったが、相手に請われれば断るのは不自然だった。
 「へえ。生活安全課・・・なんですね。てっきり刑事さんかと思ってました。」
 「あ、いえ。警察署も人員は結構厳しいので、生活安全課でも時々は捜査課の刑事の聞き取り捜査の手伝いはすることがあるんですよ。まあ、下請けみたいなものですけど。」
 「はあ、大変ですねえ。」
 「あの、わたしもお名刺、頂けますか?」
 「ああ、名刺ね。えーっと、今持ってたかな? あ、ありました。はい、これです。」
 「磯貝・・・睦夫さんと仰るんですね。あの・・・、この準運転手というのは?」
 睦夫はどこまで明かしたものか一瞬迷うが、相手に怪しまれないように隠さないことにする。
 「うちの会社では正運転手というのと、準運転手というのがありまして、まあ資格みたいなものですが。お客さんを乗せて走るのを営業運転と言いまして、法規的な事とか、営業上の制約、お客さんとのトラブル対処なんか、いろいろ勉強しなくちゃならないことが一杯ありまして、試験は結構難しいんです。準運転手というのは、取り敢えず電車の運転は実技試験で合格できるので、まあ言ってみれば運転手見習いみたいなもんです。」
 「そうなんですか。じゃ、実際には電車の運転はなさらないのですか。」
 「ああ、お客さんを乗せない場合なら。回送電車とかですね。」
 「回送・・・ですか。」
 良子の眉が一瞬吊り上がったのを睦夫は見逃さなかった。
 「で、今日はどういう事で?」
 「ああ、そうでした。あの・・・、一般の人が。あ、つまりひとつの路線の関係者ではない者がという意味ですが、幾つかの路線の電車の中に立ち入ることって出来る可能性って考えられますか?」
 「それは・・・、お客としてではなくてって意味ですか?」
 「ああ、ええ。そうです。忍び込むみたいな・・・。」
 「うーむ。ちょっと考えられないですね。営業運転以外では電車の扉はいつも閉まってますし、運転席や車掌席には鍵が掛かっていますから。鍵はセキュリティ上、各路線の運営会社ごとに管理されているので、いろんな路線の電車の鍵を持っている人間が居るってのはちょっと考えられないですね。」
 「ですよね。やっぱりそうか・・・。」
 「あり得るとしたら、車両の製造会社関連の人とかですかね。車両の運行や保守はそれぞれの電鉄会社で完全に独立してますが、車両の製造まではさすがにやれません。車両の製造は大手の電機メーカー数社が担っていて、大抵色んな電鉄会社に納車してますからね。うちでも何社かは併行発注している筈です。」
 「大手電機メーカーですか。それは思ってもみなかったわ。」
 「まあ、現実的にはいろんな路線の電車に外部の人間が勝手に出入りするなんてことはあり得ないと思いますけどね。」
 「そう・・・ですよね。分かりました。いろいろありがとうございました。」
 「あ、あの・・・。水野さんはどちらにお住まいで。もしかして、О電鉄沿線とか?」
 「ああ、そうなんです。いつも新条署に出る時はお宅の電車を利用しています。」
 「そうですか。それでうちを訪ねていらしたんですね。」
 「ご迷惑おかけしました。」
 「いえいえ、迷惑だなんて。いつでも捜査協力しますんで。磯貝って指名してくだされば。」
 「了解しました。またよろしくお願いいたします。」
 (これは、放っておく訳にはゆかないな・・・。)
 立ち去っていく水島良子の後ろ姿を見送りながら、睦夫は良子が通勤途中に何か見たに違いないと確信するのだった。

未央

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