終電眠りこけ

回送電車の女 第一部




 一

 睦夫は隣の車両の小窓から女の様子を窺う。いつもと同じように眠りこけている。そして女の居る車両内は他の乗客は誰も居ない。想定通りだったが、絶好のチャンスだと思った。
 今、一つ手前の駅を出たばかりだった。何時も通りなら女が降りる次の駅の手前辺りで目を覚ます筈だ。
(やるなら今しかない)
 睦夫はそう判断すると、ポケットからジップロックの袋を取り出す。もう片方の手で慎重に隣の車両へ移るドアのコックをひねる。
 女はまだ眠りこけている。急に目を覚ました時にはさりげなく通り過ぎる振りが出来るように心の準備をしながら背中の後ろ手でジップロックの袋を開けて中身を取り出す。
 女のすぐ手前までやってきて、今にも通り過ぎようとするその瞬間、睦夫は電光石火の如くさっと女の横に滑り込むと手にしたハンカチを素早く女の鼻と口にあてがう。

薬嗅がせ

 (むむ、ううん・・・。)
 女が一瞬、顔をそむけようとするが睦夫が顎に手を掛けてしっかりとハンカチをあてがうので、女はすぐに身動きもしなくなる。目を覚ますこともなくハンカチに浸み込ませたクロロフォルムを吸い込んで、そのまま意識を喪ったようだった。睦夫はゆっくり心の中で十を数えてからゆっくりとハンカチを女の口元から外す。
 (うまくいった・・・。)
 クロロフォルムで生き物を眠らせるのは中学生の頃の生物部員だった頃以来だ。その頃、睦夫は採ってきたカエルなどの生き物をクロロフォルムで気絶させるのが得意中の得意で、よく部活の顧問の先生に褒められたものだった。
 (先生、今日もうまく獲物を眠らせることが出来たでしょう?)
 睦夫は顧問の先生の誉め言葉を回想しながら、目の前でスウスウ寝息を立てている少女のあられもない姿を見つめ直す。一応念のために少女の鼻を抓んでみるが、ぴくりとも反応しない。
 もう一度車両全体と隣の車両への扉を確認するが人が来る気配は無かった。腕時計を確認する。電車が次の駅に到着するのは2分後だった。睦夫は手筈を心の中でもう一度確認する。電車の扉が開いているのは20秒ほどだ。たっぷり余裕のある時間とは言えない。しかし睦夫にはやり遂せる自信はあった。幸い女が眠りこけているのは乗降用ドアのすぐ脇だ。場所も駅のホームの待合所のベンチのすぐ前に停まる位置であるのは何度も確認済みだった。
 「次は、南新条、南新条です。南新条を出ますと、次は終点・新条です。この電車は本日の最終電車となります。お降り過ごしのないようにご注意ください。」
 車掌が次の駅に到着する直前であるのを車内アナウンスで知らせている。電車にGが掛かり、ブレーキが掛かって次第に減速し始めるのを身体で感じる。睦夫は椅子の上でくったりしている女の首の後ろと太腿の下の膝の後ろ側に両手を掛け、女を抱き抱える。女は完全に脱力している為に本来の体重より重く感じるが、睦夫に抱えられないほどではなかった。女の腿の肌に直に当たる睦夫の手首に艶めかしい生温かい感触が走る。
 プシューッ。
 圧縮空気のバルブが開いてドアが開くと同時に睦夫は女を抱えたまま誰も居ない南新条のホームに降り立つ。一目散に目の前の待合所のベンチを目指す。女をベンチの上に降ろして俯かせると、何事もなかったかのように落ち着いて今降りてきたばかりの扉に急がないようにして戻る。

未央

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