夜の山善本社

妄想小説


潜入捜査官 冴子 第二部



 三十九

 鬼源本社は中にこそ入ったことは無かったが、内偵中に何度も外から様子を窺っており雄太には既に馴染みの場所だった。昼間はトラックや人の出入りで騒がしいが夜になって殆ど外にはひと気がない。鬼源が邸宅として使っている奥の屋敷もすっかり明りは落ちていて人の気配はなかった。唯一、鬼源の屋敷の手前にある事務所として使われているプレハブの二階の一室にだけ明りが点っていた。雄太はそこが取引の打合せの場だろうと踏んだ。
 闇の中に紛れて敷地内に踏みこむと、外の壁からプレハブの外階段に忍び寄る。微かに聞こえてきたのは若頭と呼ばれている氷室恭平の声らしかった。
 「いいか。明日の朝にはオジキが戻って来ちまう。だから明日以降は打合せは出来ねえ。今夜しっかり段取りを頭ん中に叩き込んでおくんだぞ。」
 (やはり闇取引の打合せだった・・・。)
 雄太も恭平から告げられる取引の場所と時間を頭に叩き込む。
 (早く冴子さんに伝えなくちゃ。)
 鬼源本社に駆けつける前にも何度か呼出しはしてみたがずっと呼び出し音しか鳴らないのだった。公安本部にも連絡を取って応援要請をしなければと思うのだが、雄太としてはコンビを組んでいて上司でもある冴子にまずは連絡を取ってからにしたかったのだ。
 プレハブ事務所を離れて何処か安全な場所で冴子に連絡を取ろうと考え始めたその時だった。山道を上ってくる車の音が聞こえてきたのだ。鬼源本社に来るには途中で細い路地に入って来なければならない。
 (もう打合せが終わろうという時間だ。今更打合せに駆けつけてくる組の者が居るとは思えないから只の通りすがりだろうか。)
 雄太は耳を澄ませて車が鬼源本社への分かれ道を通り過ぎて行く音を聞き取ろうとする。しかし車は分かれ道のところから明らかに自分の居る方へ近づいてくる様子だった。カーブを曲がって車のヘッドライトがこちらを照らそうとしたので慌てて身を伏せる。車はライトをハイビームにしたまま真っ直ぐ雄太が身を伏せている方向へ走って来る。飛び出すタイミングを失ってしまった雄太は車が方向を変えてライトの向きが変るのを待つ。しかし最後まで車は向きを変えずにプレハブ事務所の真ん前で止まってしまったのだった。
 (まずいな。今、飛び出したら気づかれてしまう。)
 こうなると車から人が出てくる直前にライトを切るタイミングを待つしかなかった。車からはなかなか人が出てこない。ライトが消えるタイミングを今か今かと待受ける雄太は後ろの扉の向うで会議が終わったのに気づかないでいた。突然真後ろでガラッとプレハブ事務所の扉が開くのと、階下の車のドアが開くのが同時だった。
 「ん? お前、誰だ。ここで何してる。」
 扉から出て来た男が階段の隅に伏せってタイミングを待っていた雄太を見つけてしまったのだ。しかも階段の下からは車を降りた男二人が近寄ってきていた。
 (まずいっ。)
 一か八かで、雄太は階段の手摺りを掴むとひょいっと階下に向けて飛び降りる。
 「おい、誰か逃げたぞ。捕まえろっ。」
 階段の上の男が大声で叫ぶ。プレハブ二階からの高さはさほどではなかったものの、真っ暗闇だったせいでうまく着地出来なかった。膝をぶつけて転げまわってしまう。立上ろうとする雄太の腹が男の尖った靴の先で思いっ切り蹴られた。
 「ううっ・・・。」
 首根っこが掴まれたと思った次の瞬間に雄太の鳩尾を正拳突きの拳がのめり込んでいた。
 「誰だい、こいつは?」
 訊ねたのは車から最後に降りてきた倫子だった。
 「倫子姐さん。こいつをアンシャンテで見掛けた者が居るとかで、どうもうちの黒服に紛れ込んでいたようです。」
 「そうかい? まさかあの純子の仲間じゃなかろうね。」
 「そいつは若頭がこれから調べるということのようです。」
 「まあ、アタシがタイミングよく本社に来て良かったねえ。とんだネズミが居たもんだ。」
 倫子は最初から打合せには加わるつもりがなかったものの、終わった頃を見計らって息子の恭平を迎えに来ていたのだった。

 「奈美さあん。藤崎社長から新しいご指名で~すぅ。五番ボックス、お願いしまあす。」
 及川の声が掛かったのをこれ幸いと谷亀社長のしつこい手から逃れて及川の方へ戻ってくる。
 「及川さん。ちょっとお化粧直ししてから入るから。その間、継いでおいてね。」
 そう言うと冴子はパウダールームへ急ぐ。幸い、他には誰も居なかったので気になっていた携帯を素早くチェックする。そこには雄太からの着信履歴が幾つも入っていたのだった。メールの方もチェックすると<今夜打合せを本社でやるらしいです。店を早引けして探りに行きます。>という文字だけが残っている。本社というのは鬼源興業の本社に違いなかった。
 (一人で行ったのかしら・・・。)
 冴子には嫌な予感がふつふつと沸き起こってくるのを感じずにはいられないのだった。

saeko

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