妄想小説
潜入捜査官 冴子 第一部
十
「あの、今日からこちらの店でお世話になる奈美ですけど・・・。」
奈美と名乗った冴子がクラブ・アンシャンテに入っていくと、談笑していたキャバ嬢たちが一斉に冴子の方を振り向く。
「あら、アンタが新入りの奈美さんなの。あたし、サチ。」
「あたしはスーザン。」
「わたしはエミリー。よろしくね。」
「わたしはミチよ。」
思ったより好意的に迎えられて、冴子はほっとしながら頭を下げる。
「フロアレディは初めてじゃないんですけど、いろいろ判らないこともあると思うのでよろしくお願いしますね。」
「ちょっと、アンタたち。何、騒いでいるの?」
突然背後から甲高い声がした。
「あ、朱美姐さん。この人、新入りの奈美さんだって。」
サチと最初に名乗った一番若そうなキャバ嬢が朱美という気の強そうな女にそう告げる。
「アンタ、新入りなの? どこの田舎から来たか知らないけど挨拶の仕方も知らないようね。」
「え? あ、すみません。私、奈美と言いますけど・・・。」
「ふん。新入りは新入りらしく挨拶するものよ。」
「新入りらしい・・・挨拶って?」
「挨拶の仕方も知らないの? ここに三つ指突いて頭を下げるのよ。」
朱美は自分の目の前の床を指差して、冴子に土下座の格好を強要する。
「え・・・?」
しかしその場の空気を崩してはいけないと冴子が膝を曲げて床にひれ伏そうとした時だった。
「姐さん、姐さん・・・。」
最初に挨拶した四人のうちの一番年上らしきエミリーという娘が朱美に走り寄って耳打ちする。
「え、何だって? そ、そうなの・・・。」
朱美の顔がみるみる蒼褪めていく。床に膝を突こうとしていた冴子の傍に走り寄ると、自分の方から床に膝を突いて頭を床に付ける。
「し、失礼しました。とんだ無礼を働いてしまいました。朱美と申します。どうか、お赦しください。」
冴子は朱美の突然の豹変に驚いてどうしていいか分からない。
「あ、朱美さん? どうか、頭をお上げになって。あの、普通に挨拶して頂ければ・・・。」
冴子は朱美の肩に手をあてて顔をあげさせる。
「あ、あの・・・。しゃ、社長にはどうかこの事は内緒にして頂けないでしょうか。」
「え、内緒も何も。社長って、オーナーの鬼塚・・・源蔵さんのことね。何も言わないわよ。」
「良かった。判らないことあったら、何でも聞いてね。」
社長に告げ口されることは無さそうだと判って朱美は安心したらしく、ペロリと舌を出して親し気に冴子に擦り寄るのだった。
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