妄想小説
潜入捜査官 冴子
二十五
「奈美さん。今日は珍しく社長が来られるそうなのでよろしくね。」
「鬼塚社長が?」
黒服リーダーの及川に言われて冴子はあらためて居住まいを正す。
「社長。いらっしゃいませ。さ、どうぞ。こちらのボックスへ。」
鬼源が現れたところで真っ先に出迎えに行き、奥のボックスへ案内する冴子だった。
「どうだ。うまくやっとるか? なかなか評判がいいそうじゃないか。」
「ええ。いろんなお客様に贔屓にさせて戴いています。」
「そうか。いいことだ。」
店では毎週、本社奥の座敷で二人きりのときに行われていることなどおくびにも出さず、社長と従業員、いや一人の贔屓客とナンバーワンフロアレディとして接するのだった。
「お前のドレス姿もなかなか似合っとるじゃないか。」
奥のボックスで奈美から酒を薦められた鬼源は、あらためてフロアレディの正装のドレス姿の奈美を頭から足の先までじっくり眺めまわす。
「ありがとうございます。でも社長は着物のほうがお好きなんですよね。」
「ああ。だが、着物は儂だけのときの為に取っておいてくれ。他の奴等にはお前の和服姿は見せたくないんでな。」
「承知いたしました。」
頷く冴子は、鬼源社長にドレス姿を見られるのは初めてだったことに気づく。最初に面接で行った時はミニスカートの私服だったし、その後の身体検査ではすぐに和服に着替えさせられたのだったことを思い出した。
「今日は常連の豊川モータースの社長が大事な客を連れてくるとか言っとったんで、うまく接待してやってくれ。あれは大事な客だからの。」
「わかりました。お任せください。」
そしてその豊川モータースの社長が賓客を案内してやってきたのは、それから割とすぐの事だった。
「奈美さん。豊川社長がご指名です。五番ボックスの方へ。」
「わかりました、及川さん。じゃ、社長。行って参ります。」
冴子は鬼源に恭しく挨拶すると奥のボックスから立ち上がる。
「いらっしゃいませ、豊川社長。あ、こちらは新しいお客様? 奈美と申します。よろしくご贔屓にお願いいたします。」
「奈美ちゃん。さ、こっちへ。この人は今度、うちが海外進出するんで新しい商売相手との仲介をして貰うことになった黒崎さんっていう人だ。今日はよろしくサービスしてやってくれんか。」
「もちろんですわ、社長。さ、黒崎さん。お酒、お注ぎしますのでまずは一杯どうぞ。」
奈美からブランデーグラスを受け取った黒崎と名乗る男は薄暗い店内なのに薄目のサングラスを外しもせずに一杯煽る。
「奈美ちゃん。景気づけにまた一曲、歌ってくれんかね。」
「そうですか。では。」
冴子は豊川社長から渡されたマイクを手に立ちあがろうとする。傍らの黒崎という男は奈美から注がれた酒を一気に飲み干そうとしていた。そのグラスをゆっくりとテーブルに置くと煙草でも取り出すかのように背広の内ポケットに手を伸ばす。その所作に冴子は只ならぬものを感じていた。豊川社長の方に愛想笑いをしながら横目で窺う男の手に何やら光るものをチラッと目にする。
(危ないっ。)
男が急に立ちあがるのと、冴子が身を屈めて床に突っ伏すのがほぼ同時だった。男は手にしたナイフを振り翳しながら奥の鬼源社長が居るボックス目掛けて脱兎のごとく走りだす。しかしその瞬間に冴子が出した長い脚が男の足首を絡めとる。
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