妄想小説
潜入捜査官 冴子 第二部
二十八
「うっ・・・。」
いきなり両手の自由を奪われた奈美は、キツと強い目線を氷室に送る。
「奈美って言ったな。新入りっ。よく顔を見せてみな。」
そう言うと、恭平は手を奈美の顎に伸ばして上向かせる。
「ほう、いい面構えだっ。」
子分の一人が両手で抑え込んでいた奈美の手首から片方の手を放して奈美の後頭部に当てると、無理やりお辞儀をさせようとする。
「さ、若頭に挨拶しなっ。」
しかし、奈美は片手になったところをさっと振り払うと、逆に男の指二本を掴むとくるりと捩じり上げる。
「あいてててっ・・・。は、離せっ。」
男は捩じりあげられた痛みに堪え切れず、自分から椅子から滑り落ちて床に這いつくばる。いきなり自分の子分が目の前でねじ伏せられたのを見せられて恭平は呆気にとられ言葉を失う。
その時、様子を嗅ぎつけた黒服リーダーの及川が慌てて飛んでくる。ボックスに入るやいなや若頭の氷室に耳打ちする。
「まずいですよ、若っ。この人、社長のアレなんです。」
「何だと? お、おまえ・・・。オジキの情婦(スケ)なのか。」
「あらっ。スケだなんて・・・。社長には随分可愛がっていただいてますけど。」
そう言うと、奈美は捩じっていた男の指から手を放す。
「このアマっ。」
再び奈美に飛びかかろうとする子分を恭平が手を出して諌める。
「おいっ。オジキの情婦に手を出すんじゃねえ。おメエの方が失礼を働いたんだ。謝んな。」
「えっ、でも・・・。へえ。わかりやした。・・・。姐さん、とんだ失礼を働きまして申し訳ござんせん。どうか、お赦しを。」
子分は突然下手になって奈美の前に平伏する。
「あら、いいのよ。お酒は楽しくのみましょうよ。」
奈美は何事もなかったかのように恭平に向って微笑みかける。
「そうか。オジキの情婦か。どうりでやけに度胸が据わってると思ったぜ。俺は苗字は違うがオジキのせがれで氷室恭平ってえんだ。よろしくな。」
「こちらこそ。奈美をご贔屓に。」
そこへ先ほど逃げ出したサチが酒の盆を運んでくる。
「じゃ、お近づきの乾杯をしましょう。ね、サチさん。グラスを回してっ。」
奈美の采配がその場を鎮めると、互いにグラスを手にしたのだった。
場が和んだところですくっと奈美は立ちあがると恭平に一礼してボックスを出るとフロア中央に居た及川の元へ歩み寄る。
「あの氷室恭平って人は?」
「はい、奈美さん。鬼源社長の奥さんが倫子さんと仰るのはご存知だと思います。その倫子さんの連れ子で社長とは血の繋がりはありませんが、今は鬼源組の若頭を勤めてられます。」
「ふうん、そう。社長には血の繋がった子供は居ないの?」
「はあ。一応、そう聞いておりますが・・・。」
「一応・・・?」
冴子は及川の最後の言葉を聴き逃さなかった。
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