妄想小説
潜入捜査官 冴子
二十六
「あっ。」
勢い余って男が床につんのめると同時に手にしていたナイフを取り落とす。
「おい、こいつを抑えるんだ。」
すぐに気づいた及川が別の黒服を呼びながら黒崎という男に飛びかかる。もう一人の黒服が咄嗟に男が落したナイフを蹴り飛ばすと及川に加勢して男の腕を取る。
「は、放しやがれっ。」
「早く。この男を奥に連れて行って。」
駆けつけてきた別の黒服たちに及川が適確に指示して男は腕を捩じ上げられたまま奥の方へ連れ去られる。あっと言う間の出来事だった。
「皆さま。大変失礼をいたしました。何でもございませんので、このままごゆっくりとお過ごしくださいませ。」
及川がフロア中に聞こえるようにそう案内してその場を収めるのだった。
騒ぎが治まった後、奈美は再び鬼源のボックスへ呼ばれる。
「さっきはよくやってくれた。礼を言うぞ。」
「え、礼って・・・?」
「命を救ってくれたんだからな、奈美。」
「命を救っただなんて。私はただナイフを見て怖くなって。それで身がすくんで床に倒れ込んだだけですよ。」
「わかっておるよ。お前が一番最初にナイフに気づいたんだな。お前があいつの足を引っ掛けなかったら俺は後ろからぐさりとやられてたとこさ。」
「誰だったんですか、あの男は?」
「どうもフリーの刺客らしい。黒崎と名乗っとったようだが贋物でな。本物の黒崎は豊川社長に遭う前にあいつに襲われて公園の便所に閉じ込められておったらしい。黒崎になりすましてこの店に豊川社長と現れたようだ。豊川社長がくれぐれもお前に謝っておいて欲しいと言っとったぞ。」
「謝るだなんて。私がただ怯えて床に転がっていただけです。あの方が勝手に私の足に躓いただけですよ。でも社長はこんなにしょっちゅう命を狙われているんですか?」
「まあ、いつもという訳ではないが。ま、こんな生業だから、いろいろ敵は居るからな。」
「そうなんですか。それで私を雇う時も身体検査までして・・・。」
「悪くおもわんでくれ。ああやって用心しておっても今夜みたいな事は起こるんでな。」
冴子は決して鬼源を救いたかった訳ではなかったのだが、純子が掴んだらしい犯罪を暴くまでは鬼源に死なれては困ると思ったのだった。
翌日、冴子こと奈美は鬼源に屋敷に呼び出される。その日は鬼源に仕える日ではなかった筈だったのだが、急遽呼ばれたのだった。何時も通り鬼源の手下が運転する黒塗りの車で屋敷に向かった冴子はいつもとは違う奥座敷に通される。
「今日、急に来て貰ったのはお前に渡したいものがあってな。」
座敷に入るなり、鬼源は床の間の方に振向いて、風呂敷のようなものに包まれた長い棒のようなものを冴子に手渡す。
「こ、これは・・・。」
渡された冴子が風呂敷を解いていくと中から現れたのは一振りの日本刀だった。
鞘から抜き取ると、ぎらりと光る真剣に武道具を扱いなれた冴子でも緊張する。剣道の手習いもそれなりにはしているが、握ったことがあるのは竹刀か木刀だけだったのだ。
「数年前に手に入れたもんだが、儂が持っておっても使い道がない。お前ならいざという時に役に立たせられそうに思ったのじゃ。」
「わたしが・・・ですか?」
「そうだ。真剣というのは誰にでも扱えるもんではない。剣術が得意かどうかではのうて、いざという時の度胸が据わっているかどうかなんじゃ。お前にはそれがあると見込んだ。」
「私に・・・?」
「いいか。よく憶えておくがよい。真剣には斬るか使わないかしかないのじゃ。ひとたび鞘から抜いたら一瞬の躊躇もあってはならぬ。よく憶えておくんだぞ。」
冴子は再び真剣を鞘に納めると風呂敷でしっかり包んで鬼源の座敷を辞したのだった。
第一部 完
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