妄想小説
深夜病棟
三十三
夜11時を過ぎたのを見届けて、茉優はナースセンターの自分の席を立った。
(行くなら今しかないわ。)
先程、病棟をひと通り廻って、次の巡回まではまだ少し時間があった。
(いつか、行かねばならないのだ。その為に今日は夜勤を志願したのだから。)
そう思って当直室へ向かう廊下を独り、ひたひたと歩いていくのだった。
コンコン。
「神藤です。失礼します。」
中には池田しか居ないのは分っていた。夜間、緊急処置が発生することの多い脳神経外科と違って、耳鼻科は夜の緊急処置は殆どない。従って耳鼻科医が当直しているのは日が限られていた。一方の脳神経外科は当直が居ない夜はない。その当直がこの夜は池田なのだった。
「入り給え。」
向こうも声で茉優と判ったようだった。一つ、大きく深呼吸してから茉優は意を決してドアを開けて中に入る。
「あの・・・・。」
どう、切り出していいか茉優も判らなかった。
「ドアを閉めて。内鍵は中から掛けておいてくれ。そのほうが君にもいいだろ?」
(君にもいいだろ)と言われて自分から内鍵を掛けるのは口惜しかった。しかしこれから起こるであろう会話に他の第三者が入ってくるのも困ることではあった。
ガチャリと非情な響きがして当直室が池田と茉優二人だけの空間に変わる。
「以前に、君に話したいことがあると言ってこの当直室に着いてくるように言ったよね。憶えているかい?」
「ええ・・・、はいっ。」
「何の事か分かるかね?」
「あ、あの夜の・・・、写真の事でしょうか。」
「ふふふ。違うよ。これだよ。」
そう言って、池田がドアの近くに立ち竦む茉優に指し示したのは一枚の紙だった。
池田が何を言おうとしているのか、さっぱり判らなかった茉優だった。が、一歩池田の方に近づいてみて、その紙きれが何なのかに気づいた茉優は蒼褪める。
「そ、それは・・・。」
その紙切れは思い出したくない記憶を茉優に蘇らせた。茉優にとってそれは既に終わった筈の過去だった。しかし、紛れもなく池田がそれを掘り起こしてしまったのだ。
「半年前の投薬カルテだ。君にも覚えがあるだろう。」
それは嘗ての茉優の恋人だった浅野涼馬が作ったとされる投薬カルテだった。作ったとされるというのは、そのカルテで医療過誤は無かったと証明されたのだ。しかしその後、涼馬は病院理事会に自分に非があったことを認めた。そのせいで涼馬は四国の関連病院に飛ばされたのだ。
「このカルテは当時、浅野涼馬の処方には問題がなかったと証明するのに使われたものだ。そして一番下に担当看護師のサインがある。そう、君のだ。しかし、私が調べたところによると、あの日の担当看護師は君ではなかった筈だ。」
「ど、どうしてその事を・・・。」
「ふん。こんな小細工は所詮、何時かは発覚するものだ。しかし、これはあの医療過誤疑惑に関して隠蔽があったという紛れもない証拠だ。しかもそれにお前が加担している事もな。」
「そ、そんな事を・・・。今頃になって持出して、どうしようと言うのです?」
「さあて、どうするかな。俺には医療関係の雑誌の記者の知り合いが居てね。」
「ま、まさか・・・。」
「こんな事が明るみに出たら、あいつは四国左遷で済むどころか医師免許は剥奪だろうな。そして勿論、お前の看護師免許もな。」
「ち、ちょっと待ってください。あれはもう終わったことなんです。」
「ふふふ。そうかな。俺は記者に話して、それが記事になれば、あの時の遺族が黙っているかな?」
「こ、困ります、そんな事。私だけならともかく、四国に居る浅野先生まで巻き込んだら・・・。」
「まだ浅野の奴に未練があるようだな。浅野の事を忘れる為にこの間、結婚を決めることにしたんだろ。あ、そうか。あれも破断になったらしいからな。もう一度、浅野と縁りを戻そうって訳か。」
「そ、そんなんじゃありません。」
「ほう。じゃ、自分の保身の為か。」
(保身・・・?)
茉優は自分が稼いだ金で、何とか施設に入れて暮らしをしている認知症の掛かっている母親の事を思い出した。浅野の免許剥奪は何とかして阻止しなければならないが、自分だって今失職する訳にはゆかないのだという事を思い出した。
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