妄想小説
深夜病棟
三十一
茉優は薄手のスプリングコートを羽織って髪にスカーフを巻き、薄い色のサングラスを掛けてそのバーへ向かった。それこそ妙な変装にしか見えない格好だったが、誰かに見られて自分と判らなければ不審に思われても構わないと思ったのだ。
薄暗い、見覚えの店内のカウンター席の一番奥に池田らしい後姿があった。茉優はなるべく音を立てないように静かに歩いていって、その隣に腰掛ける。
「どういう事ですか、池田先生?」
店内ではもう不要と思ってスカーフとサングラスを外す。
「そんな物でもないと、きっと来ないと思ってね。俺に看護師たちの前で恥を掻かせてまで断るぐらいだからな。」
「そ、それは・・・。」
「まあ、一杯飲んでから話そうじゃないか。お~い、マスター。こちらの女性にジン・トニックを。それから俺にはこれのお代わりを。」
少し離れたところでマスターが無言で頷く。店内には今の所他の客は無い様子だった。マスターがグラスを二つ運んできて立ち去るのを待って、茉優は切り出した。
「他にどんな写真を持っているんです?」
「あれっ、憶えてないの?」
そう言われるのが茉優にとって一番辛い言葉だった。何を言われてもそんな筈はないと言い切れないのだ。
『あの時だって、縛られるほうが燃えるって自分から言ってたよな。』この間の夜に池田がそう言ったのを思い出していた。そんな事を言う筈はないと思うのだが、自信はない。結婚をする筈だった男に縛ってやらせて欲しいと言われて、拒んだので振られたのかもしれないと池田は自分が告白したと言っていた。酔って普段なら決して言わない筈のことをつい洩らしたのかもしれないと茉優はだんだん自信がなくなってくるのだった。もし池田の言うのが本当なら全裸で縛られている写真だって撮られている可能性がある。なにせ、起きた時には真っ裸で片方の手首にはまだロープが巻きついていたのだから。
「まだ写真があるんですね。」
恥を忍ぶ覚悟で茉優はそう口にした。
「見たいのかね?」
茉優は答える代わりに小さく頷いた。
「ここでは拙いだろう。」
池田はそう言いながら顔を上げて店のマスターの方をちらっと見る。その視線に気づいて茉優もそちらをちらっと見ると、皿を拭きながらこちらの方を向いているマスターの視線と目が合う。
「昨夜は誰かのシフトを代わってやって夜勤をしたそうだな。しかし、それは俺の当直の日の夜勤をずらす為だろ?」
「そ、それは・・・。」
「いいか。もう一度シフトを交代して俺の当直の夜の夜勤当番を申し出るんだ。そしてその夜に当直室まで来い。待っているからな。」
そう言うと、池田は勘定書きの伝票を取り上げるとカウンター席のスツールから立ち上がる。
「おや、今夜はもうお帰りですか?」
マスターがそう言いながら池田が出す勘定を受け取っている。
「いつもご贔屓にありがとうございます。お気をつけて。」
マスターの言葉に返事もせずに池田は悠々とバーを出て行くのだった。
「あの、マスター。」
池田が居なくなったところで茉優はマスターに声を掛ける。
「これをもう一杯。それと・・・、この間の夜の事、憶えてる?」
「ええ、池田先生とご一緒だった夜のことですね。」
「あの時、私酔い潰れていた?」
「ええ、相当お召し上がりでしたからね。私も途中でお止めすればよかったんですが。」
「私は池田先生に・・・?」
「ええ、寮まで送っていくからタクシーを呼べと仰って。タクシーへは先生が肩を担がれてゆかれましたよ。」
(ああ、やっぱりそうなのだ・・・。)
茉優は池田の話が満更作り話ではないのを確認して落胆していた。池田の言っていた、その後タクシーで吐きそうになって池田のマンション前で降りた時に吐いたというのも信憑性が出て来た。その時は自分でも憶えていないが意識はあったのかもしれない、そう思うのだった。
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