妄想小説
走る女 第二部
四十七
「着て来ましたけど、こんなんでいいのですか。」
初日に贋のアルバイトとして管理人室にやってきた莉緒は蛭田から掃除用の制服として渡されたものに着替えて蛭田の前に現れた。
「おう、なかなか似合ってるじゃないか。それなら何処から見ても掃除のオバサンだ。」
「でも丈は何故こんなに短いんですか?」
「ホースで水を流したり、なにかと水回りの仕事が多いからな。裾が長いと濡れちゃうからさ。」
掃除婦の制服はかなり短めのミニワンピのような丈だった。本当はそれに作業ズボンを合わせるものなのだが、蛭田はわざとズボンは与えずワンピースのように莉緒に着るよう命じたのだった。
「私にさせる仕事って、トイレ掃除でもさせようって言うのですか。」
「ふふふ。まあ、半分は合っているかな。正確に言えば、トイレ掃除の掃除婦を演じるってとこかな。まあ、そのうちじっくり説明するから段々分かってくるだろうさ。」
訳がわからないまま、呆気にとられている莉緒に向って、好男は掃除用具を入れたバケツを持って、グランドの男子用外トイレに行ってくるように命じる。
「掃除はしなくていいから、男子用トイレに出入りするのに慣れておくんだ。もし誰かに見つかっても、掃除婦の振りをして何気ない仕草で誤魔化す練習をしておくんだ。いいな。」
そう言われて、狐につままれたような気持ちでグランドの外トイレに向わされた莉緒だった。
「ね、あなた。今度の日曜日、休日出勤だったわよね。」
「ああ、そうなんだ。悪いね。でも、まだ俺は下っ端だからそういうの断れなくって。」
「いいのよ。私もその日、仕事が入っちゃったの。なんでも市の自治会連が主催しているゲートボール大会があるらしくて、そこに市長が来賓で呼ばれてるんですって。で、その対応で、グランド管理側も大変らしいのよ。」
「ああ、それで動員されるって訳だ。ま、偉い人が来ると何かと大変だからね。いいよ、行っておいでよ。」
「ありがとう。帰りはそんなには遅くならない筈だから。」
管理人の蛭田からはその日は何が何でも出勤するよう言い渡されていた莉緒だったので、夫のトオルが何も怪しがらずにOKを出してくれたのでホッとしたのだった。
「で、私は何をすればいいの?」
とにかく蛭田が指示する通りに動くしかないのだと莉緒はよく心得ていた。
「朝一番で市長は開会式の宣言をすることになっている。その後、暫く会場に居て、あとは試合が終わった後のセレモニーで表彰式に出るまで暇だからずっとこっちの管理人室で休んでることになってる。」
「そのお茶出しでもすればいいの?」
「いや、そんなのは女の秘書が来るから全部やってくれる筈だ。」
「じゃ、私は何を?」
「お前には掃除婦をやって貰う。」
「え? どういう事・・・?」
その後、莉緒は演技の細かい点まで逐一指導されたのだった。
「えー、本日はお日柄もよく、晴天に恵まれました。私、朝日市の市長として今日のゲートボール大会に主賓としてお招き頂きましてひと言ご挨拶を・・・。」
管理人室の奥の控え部屋で待機するよう命じられた莉緒のところにも、グランドから拡声器を通した市長の挨拶が風に乗って聞こえてきていたのだった。
「市長、お疲れ様でした。この後は表彰式のプレゼンタ―として出て頂くまでこちらの控え室でお休み頂くことが出来ます。勿論、ゲートボール会場での観戦も出来ますが。」
「いや、あんな日向に一日居たら僕みたいな年寄りは疲れ切っちまうからな。君、僕の代りに市長代行として観戦しといてくれないか。」
「かしこまりました、市長。では、蛭田さん。こちらの方はお任せしてよろしいでしょうか?」
「ああ、勿論です。と言ってもただお休み頂くだけで市長のお相手など私には出来ませんが。」
「あ、君。蛭田君と言ったっけ。別に相手をして貰う必要はない。適当に休んでいるから。」
「左様ですか。では。」
「市長、では市長代行としてグランドの方に行って居ります。お昼を召しあがって頂く頃、またこちらへ参りますので。」
「ああ、早乙女くん。よろしく頼んだよ。」
秘書の早乙女花音はぺこりと市長にお辞儀をするとグランドのほうへ出て行く。
「あ、蛭田君。トイレはグランドの外のあそこかね。」
「ああ、市長。あちらはゲートボールに出てる老人たちが入れ替わり立ち替わりで使ってますので、どうぞこちらの管理人室の方をお使いください。廊下を出てまっすぐの所です。」
「ああ、そうかい。ありがとう。」
市長の言葉に思わずニヤリとしながら合図の信号を電話で莉緒に送った蛭田だった。
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