沢

妄想小説

尼僧院物語



 二十九

 僧院長が追っ手として差し向けたのは、いつも深夜に若者を礼拝堂に運び込んで縛り付けるのを手伝わせている僧院長子飼いの修道女数名だった。秘密を広げる訳にはゆかなかったからだ。その修道女たちが暫くして町の近くまで行ったが見つからなかったと帰ってきた。僧院長から町の人間には見つかってはならないときつく釘を差されていたからだ。ただ、沢の近くで靴下の入った片方の靴と、もう片方の靴下がみつかったとの事で、男は沢に入って見つからないように逃げようとしたのではないかとの事だった。その沢は急な深みに嵌りやすいので土地の人間でも沢に入る者は居ない危険な流れで、土地に詳しくない者がむやみに入れば必ず流されるという沢なのだった。

 あれから二箇月が経っていた。涼馬の足の怪我も捻挫もすっかりよくなっていた。涼馬は無事大学三年に進学し、ワンダーフォーゲル部の部長にも就任していた。しかしまだ山歩きは充分に出来ない状態だったのでこの二箇月間は親友の斉藤琢己に代行して貰っていた。琢己とは大学入学時から一緒にワンダーフォーゲル部に参加している仲だった。涼馬は琢己に部長を務めて貰いたいと申し出たのだが、涼馬の足が治るまでの代行ならと言って固辞したのだった。
 涼馬の足がほぼ治って、リハビリを兼ねて本当は新人歓迎登山で使う筈だったコースを琢己と二人で歩くことにしたのだった。涼馬はそのコースそのものよりも、心の奥であの時の修道院を探し出してみたいと思っていたのだ。
 足の治療中も地図などを使って修道院の場所を捜したのだが、涼馬が脚を滑らせて滑落したらしい場所までは探し出せるのに、崖の下の沢沿いの道はどんな地図を見ても載っていなかった。しかも沢沿いをどう探してみても修道院らしきものは地図上には見当たらないのだった。
 マリアは僧院から町までは沢沿いの一本道があると話していた。しかし町の側から辿ってみてもそんな道の入り口らしきものは見当たらないのだった。それで、涼馬は滑落した崖からザイルを使って崖を下り、自分が歩いたらしい道を辿ってみることにしたのだ。
 琢己には修道院であったことを全てではないが話してあった。琢己はそんなのは妄想だと最初のうちは取り合わなかったのだが、涼馬がその場所を訪れてみようと考えていると話したら、俄然興味を憶えたらしく、一緒に同行すると言い出したのだ。
 「ここだ。この崖なんだ。ここからこっちのほうに珍しい高山植物を見つけてそれを取ろうとしていてここから滑落したんだ。間違いない。」
 琢己も涼馬に言われた崖から身を乗り出して下を眺めてみる。かなり急峻な崖で運が悪ければ命を落としかねない場所だった。二人で丈夫そうな樹を捜してそこにザイルを掛ける。ザイルを使って道の無い崖を降りるなど、涼馬たちのワンゲル部では行うことはないのだが、要領だけは冬山の本などで勉強していた。二人はそれぞれのロープで崖を降り始める。20mほど降りたところで無事沢が流れる川岸に降り立つことが出来た。
 「ここからこっちに向かって沢の岸を歩いていったら山道に出たんだ。ああ、ここだな。」
 沢の岸から少し上によじ登ると一本の山道に出たのだ。
 「ふうん、この道が地図には載ってなかったんだな。」
 本当に涼馬が言っていた道があったことで、琢己には涼馬の話が信憑性を持ち始めて感じられてきた。
 「本当に修道院があるか、行ってみようぜ。」
 「ああ、勿論だとも。」
 実際に見覚えのある建物が真っ直ぐな道の先に見えてきたのはそれから30分ほど歩いた後だった。あの時は捻挫した足を引き摺りながらだったので1時間以上はかかった筈だと涼馬は思った。

tbc
  次へ   先頭へ




ページのトップへ戻る