平穏な日々

妄想小説

プール監視員



 その19

 その日から美沙子と里美にとって、何事もなかったかのような日々が一見戻ってきたかに見えていた。美沙子は里美が自分を救い出しに来てくれたのは間違いない事実だとは思っていたが、どうして二人で全裸になって寝ていたのかは訊かなかった。また里美のほうも、家に無事で居る筈と思っていた美沙子が何時の間に彼等に拉致されていたのかも訊かなかった。
 里美は美沙子が縛られたまま失禁していたことで、服を脱がされることもなくずっと縛られたままで放置されていた事、それはすなわち自分が彼等にいたぶられていた事で、美沙子が凌辱されるのだけは免れた証拠だと思っていた。だから、どうして彼等に拉致されたのかを問い質すことで、自分が美沙子の身代わりになったということまで言及しなければならなくなることを避けたのだった。
 美沙子の方も、彼らが里美を装って緊急の用で逢いたいとメールしてきたのに何も疑わずのこのこと出てきてしまったことで彼等に拉致され監禁されたのに、その後何もされなかったのは何か訳があると思ったのだが、里美の身にもしや何かあったのではと思うと迂闊に里美に問い質すのも憚られたのだった。

 「へえ、ここが機械室なんですね。」
 美沙子はあれからすっかり仲が良くなった管理人の小林に案内されて、一度観てみたいと話していた室内プールの建屋三階にある機械室にやってきて、ずらっと並んだ電気スイッチやメータ類に圧倒されていた。
 「ここの機械をずっと小林さんが管理されているんですね。」
 「ああ、まあずっと管理ったって、朝来てスイッチを入れて、夜それを落として帰るだけなんだがね。」
 「へえ、あっそうそう。室内プールに幾つかある防犯カメラなんかも小林さんが管理されてるんでしょ? 」
 これも前から訊いてみたかったことをずばり小林にこの時とばかりに訊いてみる。
 「あ、いや。防犯カメラは私の管理じゃないんだ。多分、セキュリティの業者なんじゃないかな。私はどうやって管理してるのかは知らないんだ。」
 「ああ、そうなんですか。」
 (そういえば)と美沙子は不審に思うことがあった。何度か室内プールの建屋に忍び込む際に、通常よくあるセキュリティ警備保障の会社のステッカーがこの室内プール設備には何処にも貼られていないことに気づいたからだった。夜中、警備員が見廻りをしているという事もなさそうだった。
 「あ、ここに来る時、この機械室とは反対側にもうひとつ扉がありましたよね。あれは・・・?」
 「ああ、いや。私も知らないんだ。ここが出来た時からあるにはあるが、何に使っている部屋かね。何せ普段から何時も鍵が掛かってるんで、緊急事態の時用の部屋なのかなぐらいに思ってたんだが。」
 「なるほど、そうかもしれませんね。」
 美沙子は管理人の小林すら知らない部屋があるのいうのが妙に心に引っ掛かったのだった。
 「この部屋も小林さんが普段からちゃんと鍵は掛けられているのでしょ? 」
 「ほんとはそうするんだろうが、何せこんな所にこんな部屋があるのは誰も知らないし、わざわざ三階まで昇って来る人も居ないんで、実はもうずっと前から鍵は開けっ放しなんだよ。特に何か盗まれるものがある訳でもないしね。」
 「それもそうですね。ね、もうひとつ訊いていいですか。これは興味本位で訊くんですけど。」
 「なんだい、美沙子ちゃん?」

ナイフスイッチ

 「ほら、常夜灯ってあるじゃないですか。あれって、電源落としても消えませんよね。」
 「そりゃ、常夜灯だからね。消えちゃっちゃ常夜灯にならないから。」
 「でも、点検とか交換の時は困るでしょ?」
 「ああ、そんな事か。勿論、常夜灯だって交換することはあるからね。ほら、あそこにあるだろ。上の方。あれ、ジャックナイフっていう形式の電源スイッチなんだけど、あれを切ると建物全体の電源が落ちて常夜灯も切れるんだよ。普段は切ったりはしないけどね。」
 「ああ、なあんだ。なるほどね。」
 そんな事を話しながら三階の機械室から管理人の小林と二人で降りてきた美沙子だった。

 管理人の小林の話を聞いてから、美沙子は暇さえあればプールの二階にあるガラス張りの待合室ホールのプールが見下ろせるベンチに座っているようにしていた。何気なく泳いでいる人達を上から見下ろしているようにしながらも、美沙子が注目していたのはそこから見通せる三階へ上る階段口なのだった。管理人は朝と夜だけ建物全体の電源を入れたり落したりする為に電源室へ行くと行っていた。美沙子はそれ以外にあの電源室の反対側の謎の部屋へ立ち入りする者が居るのではと見当をつけていた。そしてその者を見つけようとしていたのだ。
 美沙子がそこへ待機するようになって、その男が現れたのはすぐの事だった。いつもサングラスをしているその男はプール施設で何度か見掛けた覚えがあった。ポケットに両手を突っ込んで歩く姿はヤクザ風でもあったが、それほどの年にも見えなかった。
 男が電源室ともうひとつの謎の部屋しかない三階への階段を気配を立てずにさっと登っていったのを認めた美沙子はすっとベンチを立ってこちらも気配を殺しながらそっと階段の方へ近寄っていく。歩きながらも耳を澄ませて男の足音を覗う。ちょうど歩数が三階のフロアに届いたと思う頃、足音が一旦止まった。微かに鍵音が聞こえた気がした美沙子は(電源室ではない)と確信した。電源室は小林がいつも鍵は掛けていないと言っていたからだ。
 大きく深呼吸すると、美沙子も足音を立てないようにそっと階段を昇っていく。美沙子は電源室の方の扉を、こちらも音を立てないようにゆっくりと開いて中に滑り込む。反対側の扉は既に閉まっていた。ドアの脇に立って隣の部屋の物音を窺う。暫くは何も音がしなかった。が、5分くらいした頃、ドアが開く音がした。美沙子は妙な虫の報せを感じて、さっと手近な机の下に身を隠した。それと同時に電源室の扉が男によって開かれたのだった。
 美沙子は心臓が飛び出るような思いをしながら自分の手で口を塞いで身を殺していた。男は扉を開けたまま暫くじっとしていた様子だったが、そのまま扉から離れた様子だった。美沙子が顔をあげて扉の方をみると電源室の扉は開けたままだ。その時、またガチャリと音がして隣の部屋が再び開かれた気配がする。
 決死の覚悟で美沙子は身を隠していた机からゆっくり這い出ると扉の向こうを窺う。美沙子の居る電源室の扉と、男が再び入っていったらしい謎の部屋の二つの扉を介してその向こう側がちらっと垣間見れる。男の背中の向こう側に何台ものテレビのような画面があった。部屋は薄暗がりなので明かりはそのテレビモニタの画面だけと言ってよかった。男はモニタ画面を一つひとつチェックしている様子だった。男が再びこちらを向きかけたので慌てて机の下に潜り込む。美沙子が気配を押し殺していると、男が再びやってきて電源室の扉を閉じ、それから少ししてもう一つの扉を閉め施錠をしている音が聞こえてきた。
 美沙子が物陰から再び這い上がったのは、男が階段を下りて行く足音を聞いてから充分に時間を置いてからのことだった。
 美沙子は一瞬だけちらっとみたモニタ画面に映っていたものを一生懸命思い出そうとしてた。はっきりとは分からないが、どこかで観たようなものがそこに映っていた気がしていたのだった。
 階段を走り降りると、ホールに出る前にちょっと立ち止まって誰も居ないのを確認する。それからホールから一階へ降りる階段を伝っていくと、男が受付のところで何やら話をしているのを認め、階段の影から自分の身を隠したまま様子だけ窺うことにした。受付にはいつものオバサンが居る筈だ。そのオバサンに男は何やら預けているように見えた。やがて男はオバサンから受け取ったらしい小さな袋を手に男子更衣室の方へ消えていったのだった。

 「ねえ。今の人、よく見かけるけど知ってる方?」
 美沙子は受付のオバサンに声を掛けてみる。このオバサンとも顔馴染なので美沙子も気楽に話し掛けることが出来るのだった。
 「あら、美沙ちゃん。ああ、今の人? あのね、市長の息子・・・? らしいわよ。ほら、このプール施設を建てた市長。その息子さんで、このプール施設を建てる際にいろいろ関係してたそうよ。だから、プールの事、何から何までよく知っていて。」
 「へえー、そうなんだ。」
 「毎週、三回ほどプールに来て泳いでいくわ。いつも2000mも泳いでいくの。お決まりのトレーニングらしいわ。だから毎回、休憩も挟んで悠に30分は泳いでいくかしら。」
 「へえ、一回に2000mっていうと素人じゃないわね。でも競泳選手には見えないし・・・。」
 「単に身体を鍛えてるだけじゃないの? 結構ガタイは良さそうだから。」
 「ねえ。今、何か預けてたでしょ? 」
 「ああ、見てたの? あのね・・・。実は、ここだけの話。ここのプールのロッカ―の鍵って、セキュリティが甘くてね。実は鍵って3種類しかないの。だからこの受付で下駄箱の番号札と取り換えでプールに持ち込むロッカーの鍵を渡してるんだけど、その鍵で三つに一つは開いちゃうのよ。プール建てた時に経費節減でそうしたらしいの。でも使ってる人は皆違う鍵だと思ってるから、ロッカーに置いておけば安全だと思って使ってるの。だから知ってる人はロッカーには貴重品は置かないでここに預けていくのよ。あ、この話、他の人にしちゃ駄目よ。」
 「分ってるわよ。でも、そういう事情もよく知ってるんだ、あの人・・・。」
 「まあ、このプール施設のぬしみたいなもんね。」
 「へえ、・・・。あ、じゃあ、またね。」
 貴重な情報を仕入れると、美沙子は再び二階の待合ホールへ向かう。見学コーナーになっている二階の全面ガラス張りの窓からプールを見下ろしてみる。美沙子が捜していたのは同僚のアルバイト監視員ではなく、さきほど男子更衣室に消えた男の姿だった。そしてすぐにコースロープが張られた端のコースを悠々と背泳ぎで泳ぐ男の姿をみつける。素顔は知らないものの、サングラスと似た黒っぽいゴーグルが特徴的ですぐにそれと判るのだった。
 (なるほど・・・。2000m一気に泳ぐとするとあのくらいのペースか。)
 水泳部だけに、泳ぐスピードと距離から水泳時間を頭で計算するのだった。

  次へ   先頭へ




ページのトップへ戻る