妄想小説
地に堕ちた女帝王
二
真中紗姫は今年29歳だ。自分が生まれ育った地方都市の郊外にある自動車部品製造工場にもう9年勤めていることになる。もともと大手自動車会社の子会社で、その地では昔から有名な会社ではあったが、規模はちっぽけな零細企業よりは少しましという程度で、全国的には無名の会社だった。それが、数年前、大手の電機メーカーに吸収合併されたのだった。
紗姫が入社した時には、工場はひとつの独立した会社で、工場長は社長だった。紗姫の学歴はそこそこの地方短大卒だったが、生まれつきの美貌とすらっと伸びた肢体が当時の年寄り役員たちに気に入られて、入社するや総務所属の受付嬢に抜擢された。その後仕事らしい仕事もない役員秘書室勤務を数年勤めたところで、会社が吸収合併され、元役員たちはせいぜいが部長クラスに降格になり、親会社から退役した役員たちが天下りで執行役員として派遣されてくるようになった。社長室は事業所長室になり、元の役員たちも次々に辞めていったので、秘書室そのものが不要となり、数名のみが親会社から派遣されてくる老人役員のお守りのような秘書として残されただけだった。
紗姫たちも総務やら、資材部やらどうでもいい部署にたらい回しにされ、最後に行き着いたのが今の環境安全課なのだった。
会社が凋落し、周りが華やかでなくなっていく中で、紗姫はどんな職場に回されても一本筋の通った生き方をしていた。それは、常に男の気を惹きながら、男たちには目も呉れない毅然とした態度だった。
中学時代からずっと武道系のスポーツをやって鍛えられた身体は、元々が脚が長く上背もあって、モデル張りの体躯を誇っていた。女子社員の会社の制服は、普通に着るとよれよれして田舎臭いデザインのベストとタイトスカートの組合せだったが、紗姫はそれを自分で仕立て直して、擦れ違う男達がはっとするような身体の線がはっきり出る形に詰め、スカートは丈を短くして惜しげも無く張りのある太腿を露わにさせて、工場内を闊歩していた。工場内に居る時でさえ、男がはっと振り向く超ミニの制服なのに、歩いても通える工場に程近いアパートからは、これでもかと言わんばかりにフェロモンを振り捲るセクシーな衣装を纏って悠々と歩いて出勤するのだった。紗姫のコンセプトは、惜しげもなく自分の長い脚を男達に晒して垂涎の的にさせ、それでいて男達の熱い視線には歯牙もかけず、パンティだって絶対に覗かせないことなのだった。男達を何時も身体で誘いながら、決して男たちの誘いには乗らないのだった。
紗姫の存在は、工場内では知らないものはないほどの超有名人ではあったが、あからさまに男達の間で噂にのぼったり語り草になることは少なかった。元々美貌ではあるが、毅然としたきりっとした立ち振る舞いはつけ入る隙を与えず、少し怒ったように感じられる鋭い眼差しで睨まれると怖くさえあった。だから、男たちは人前で声高に彼女のことを話題にすることができず、それでいて密かに自分だけが関心を持っているかのように、そっと盗み見ているというのが常だったのだ。中には顔と脚の綺麗さだけはよく知っているのに名前も知らないという男性社員も居るぐらいだった。
そんな紗姫に目を付けた一人に日下憲弘が居た。日下は新入社員だった。地方三流大学を親に頼み込んで大学院まで出して貰ったのは、研究心があったからではなくて、就職が難しそうという単純な理由から社会に出るのを先延ばしにしただけのことだった。元々そんな大学を二浪して漸く入っているという事情だったので、26歳にもなっていて、短大を出て9年も会社歴のある紗姫とはそれほどは年もかけ離れてはいなかったのだ。
もさっとした見かけの風貌のせいもあって、女には晩生の日下には、それまで彼女が居たことがなかった。大学時代もさしたるサークルに所属することもなく、極少数の男友達との間でする麻雀か、独りで行くパチンコに生活の殆どの時間が費やされている毎日だった。女友達の出来る環境には全くといっていいくらい無かったのだ。性欲はもっぱら劣悪風俗誌を買ってきては、下宿アパートの部屋でする自慰で処理されていた。風俗店へ行く器量も勇気もないのだった。
そんな女経験の全く無い憲弘が、無謀にも紗姫に心を寄せ始め、勇気を振り絞って誘い掛けることになったのには、憲弘の全くの勘違いがあったのだった。
紗姫と同じ会社に入社した憲弘が配属されたのは、その会社の資材取得業務を行う資材部というところだった。地味な作業をこつこつとやる部署で、事務所も工場敷地の隅の独立建屋にあった。実は暫く前まではそこは紗姫たちが一時、総務部の備品課として詰めていた事務所で、大手メーカーに買収された後、本社の総務資材部に統合されて廃部になってしまった為、紗姫は工場建屋内に事務所を持つ環境安全課に回されたのだった。新たに資材部が居を構えることになったその敷地隅の建屋には二階に喫煙室があった。南向きのガラス張りの部屋で、工場敷地の隅にあることから人通りも少なく、数少なくなった喫煙者達、特に女性の喫煙者には居心地のいい場所なのだった。
喫煙者の数が年々減ったことと、工場内で喫煙出来る場所も減り、喫煙者が敬遠されるようになって、今では煙草を吸う者といえば、昭和20年代までの年寄り連中か、若い女性に限られるようになって、憲弘のような新人男性の中にも喫煙者はそうはいなかった。その数少ない喫煙者である憲弘は、工場内で男ばかりしかいない環境安全課の喫煙所を避けて、嘗ての職場の居心地のいい喫煙ルームまで煙草を吸いにやってくる紗姫たちにそこで出遭ったのだった。
憲弘が初めて紗姫に出遭ったのは、工場実習から戻って配属の資材課事務所に出るようになった二日目の昼休みだった。資材課で煙草を吸う男性は既に憲弘ただ独りだったので、喫煙ルームも独りで使うことが多かった。
その日も、ランチ後の昼休みをゆっくり煙草をくゆらせていると、階段を見知らぬ女性が二人上がってくるのがガラス越しに見えたのだった。会社に入って間もない憲弘にはその二人は初めて見かける女性たちだったが、その一人は凄い美人だった。しかも穿いているのは制服のスカートの筈なのに、思いっきり丈が短く詰めてあって、張りのある太腿を惜しげもなく露わにしている。憲弘は思わず生唾を飲み込んだ。どこへ行くのだろうと見ていると、二人はどんどん近づいてくるのだった。そして背の高い美人のほうが、喫煙ルームのドアを開けたのを見て、憲弘は思わず声を挙げそうになった。
「いいかしら。」
奥の席に座って縮こまっている憲弘を見下ろすように美人は言った。
「あ、・・・あ、はい。あ、出ましょうか。」
半分ほど吸い残した煙草をもみ消そうとすると、美人は手でそれを制した。
「いいわよ。そのまま居て。」
一緒に連れてきたもう一人を隣の席に引っ張りこむと、ミニスカートの美人は憲弘のほぼ真正面にある椅子に腰を掛ける。腰を落とす一瞬、両腿の間にデルタゾーンが覗きそうになるのを憲弘の視線がつい追ってしまう。が、見えそうになる瞬間、美人の手が膝の上に被さり、視線を遮った。その次の一瞬、目も眩む速さで、脚を組むと、美しい脚線美が憲弘の目の前にかざされたのだった。
ゴクンとまた、生唾を呑み込む憲弘だった。
美人の連れは、見るからに貧相な、どちらかといえば不細工な女だった。背も低く、それほど高くない憲弘よりも更に低そうだった。
美人は、傍らのハンドバッグから華奢な手で細身のメンソールの煙草を一本取り出す。その指に綺麗なマニキュアが光っていた。横から連れの不細工なほうの女がいつの間に取り出したのか、金色に光るライターでカチッと火をつけている。その仕草はまるで、ホステス嬢のようだった。不細工も煙草を一本取り出すと、自分で火を点ける。
憲弘はどうしていいのか判らずにただ、どぎまぎしている。見てはならないと思いながらも、どうしても美人のほうの露わな脚を見てしまう。ぴっちり脚を組んでいるので、短いスカートは更にずり上がっているのだが、下着が覗いてしまうようなことはない。それでもどうしても脚の付け根のほうが気になってしまう。
女たちのほうも、憲弘がいるせいか、特に会話するでもなく、ただ黙って煙草をふかしている。
憲弘はとうとう居たたまれなくなって、煙草をもみ消すと立ち上がった。
喫煙ルームを後にする憲弘の背後で、(くくっ)という軽い笑い声が洩れているのを憲弘は聞き逃さなかった。それが紗姫との最初の出会いだった。
それから憲弘は、昼休みに紗姫たちがやってくるのを楽しみにするようになった。狭い個室内に男女で居るのは緊張はしたが、女性の近くに普段一緒に居ることのない憲弘にとっては、女性特有の甘酸っぱい香りを嗅いでいるだけで、至福の一時を過ごせるのだった。
「あのお、お姐さんがたは、どちらの方なのですか。」
とうとう堪らなくなって、憲弘は崖から飛び降りるくらいの気持ちで話し掛けた。勿論、ミニスカートの紗姫のほうに向かってである。
「環境安全課。ほら、あそこの北側の階段を昇ってって、奥に見える工場。あの一階の端っこにあるのよ。・・・・。ああ、私達、少し前までここのフロアに居たの。だから、煙草を吸う時は、いつもここに来るの。だって、工場の中じゃあ、陰気くさくって。ね、真美。」
紗姫は横のブサイクに同意を求める。
話を振られたブサイクのほうは、肩をすくめて、そうだともそうでないとも取れるような仕草をする。
「アンタは、ここの資材課の新人君でしょ。ナミから聞いてるわよ。」
ナミという名を聞いて、憲弘がびくっとする。同じ資材課の中で庶務をやっているちょっと太った女の子で、憲弘にとっては、とってもおっかない存在だった。ついこの間も先輩の男性社員がこの庶務の子に、出張清算書の書き方が間違っていると、こっぴどく叱られているのを目撃したばかりである。その時も憲弘は、自分が怒られているかのように首をすくめていたのだ。
憲弘が紗姫の言葉に反応出来ないでいると、女二人は憲弘のことで何か思い出したのか、突然二人して目を見合わせて、くすっと笑う。
その日の会話はそれまでだった。しかし、たったの一言でも言葉が交わせたことが憲弘には嬉しかった。
先に出て行った二人の後から、事務所に戻った憲弘は、こっそり窺がうように、事務所の北側の窓から、二人が北側の崖の外階段を上がっていくのを見つめていた。二人はいつも一緒のようだった。それも二人して歩いている格好は少し妙だった。紗姫のほうが、ブサイクなほうの腕を取るようにしてまるで、ブサイクを連行してゆくかのように歩いていくのだ。仲良しが手を繋いで行くというのとはちょっと違うように何となく見えるのだった。
二人の姿が見えなくなると、すぐに憲弘は自分の席に戻ってパソコンを立ち上げる。社内電子メールシステムを立上げ、アドレス帳を繰っていき、「環境安全課」の欄を探す。
以前にちらっとミニスカ美人の胸元を盗み見て、ネームプレートに「真中」という文字を読み取っていた。
(真中、真中、・・・・。あった。)
真中紗姫という名前が環境安全課の一番下にある。そのすぐ上に百地真美という名前があって、紗姫が隣のブサイクに向かって「真美」と呼び掛けていたことを思い出した。しかし、メールのアドレス順からはどうやら、真美のほうが年上らしいことが窺がわれた。
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