アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第四十四章
その日、朱美は時刻表で調べて、和樹の妻が乗るであろう特急電車の一つ手前の駅まで予め行って、先にその電車に乗ってしまうことにした。一緒に茅野から乗り込むと、和樹に見つかって感づかれてしまうかもしれないので避けたのだ。茅野の駅から特急電車に乗って東京に向かい、その日のうちに帰ってくるとすると、使う便は限られてくる。そんなに本数がある訳ではないからだ。朱美は午前中のうちに東京へ着ける茅野9時過ぎ発車の特急あずさに狙いを付けた。
和樹は今度の週末とだけ言っていた。土曜か日曜かは教えてくれなかったが、日曜だろうと踏んでいた。土曜だと、出勤の為に東京に出て来る月曜まで丸一日、蓼科で夫婦が一緒に過ごすことになる。恥辱プレイをさせた直後だとさすがにそれは気拙い筈だと考えたのだ。日曜ならその夜、辱めた後、暫く冷却期間を置けることになるからだ。
茅野のひとつ手前の上諏訪から上り特急あずさに乗り込んだ朱美は、茅野に着く前、サングラスを掛け、マフラーを頭に巻く。万が一、和樹に見つかっては拙いからだ。電車からすぐにホームに出れるように、茅野駅に電車が着く前にあらかじめ先頭車両のデッキに立つ。電車が茅野の駅に滑り込んでいく。ホームで待つ乗客に注意しながらもホームの先に見える駅舎の向こう側の駐車場のほうにも目を凝らす。和樹が車にレンジローバーを使っていることは聞いていた。
かなり遠いところから、赤い大きな車体が見える。見るからに外国製の四輪駆動車だ。横に立つシルエットには見覚えがあった。電車がホームに入ってゆき、スピードを緩めてくる。ホームに立つ人の姿がはっきり見えるようになる。明るいクリーム色のジャケットに同色のミニスカートを合わせた一人の女性の姿の前を通り過ぎた。その直ぐ後に電車は停車した。
朱美はさっとホームに降り立つ。先ほどの女性が振り向いて車のほうに手を振っている。四輪駆動車の男は軽く手を挙げただけだった。
(二号車だわ。)
女が乗る車両を確認した朱美は再び車内に戻る。
(行って来るわね。奥さんと一緒に・・・。)
朱美は遠くの四輪駆動車の脇に立って見送っている男に心の中で別れを告げる。
「えーっと、あ、ここだわ。」
電車が茅野を出発して暫くしてから、さり気なく手にした切符を確認しながら、貴子の傍に近づいた朱美は、窓側に座っている貴子の隣の席を指差す。
電車はかなり空いている。どこへ座ってもいい筈なのだが、朱美は自分の指定席がここだからしょうがないという振りをする。
「えーっと・・・。いいかしら、ここ。他も空いているみたいだけど、誰か来て席を替わるのも嫌だし・・・。」
「あ、構いませんわ。どうぞ。」
貴子は明るく笑顔で微笑みかける。
貴子はミニスカートから覗く腿の上にショルダーバッグを置いて脚を覆い隠している。朱美も貴子に負けないくらいの短さの丈だが、こちらは黒のレザーのタイトミニである。下には柄付の黒いストッキングといういでたち。貴子が清純な女学生風なのに対し、朱美は娼婦のように見えなくもない。その貴子の横に、滑り込むとさっと脚を組む。
「東京まで?」
「ええ、そうです。」
「あら、私もよ。でも、この電車って、殆どの人が東京行きかしらね。」
「どうなんですか・・・。私、普段あまり電車って、乗ることがないんです。」
「へ~え、そう。」
朱美は貴子の姿を改めてまじまじと見直してみる。和樹は自分と同じ位の歳だと言っていたが、明らかに自分よりは若く見えそうだと思う。元々童顔なのだろう。和樹がわざと穿かせているミニスカートも貴子を若く見せている。朱美のほうが歳相応といったところかもしれないと思う。
朱美が茅野を過ぎてから貴子の隣に来たので、同じように茅野から乗ってきたのだと思うのが普通の筈だ。しかし貴子はホームに朱美らしき姿は無かったことには気づいていないようだった。
「茅野に棲んでるの、貴方?」
「ええ、蓼科高原の山のほうです。」
「あら、じゃあ別荘住まい?」
「別荘ではなくて、一年中過ごしてます。あ、とは言っても、引越してまだ最初の冬も越してないんですけどね。」
「ははあ・・・。さしずめ、旦那さんと悠々自適の生活ってところね。」
「さあ、どうなんでしょうか。夫は、一応は退職してますけど、まだ嘱託で働いているので。」
「蓼科で嘱託?」
「いえ、蓼科ではなくて、東京の会社に通ってるんです。週3日程度ですけど。」
「あら、じゃあ普段は週3日も一人暮らしってこと?しかも蓼科の山奥で。」
「そうなんです・・・。最近は慣れてきましたけれど、ちょっと淋しいかな。」
「今年、蓼科に越してきたっていうと、前は何処に棲んでらしたの?」
「藤沢です。遊行寺って、わかります?」
「あら、古くからある家が多いところでしょ。由緒正しい旧家みたいな。」
「そうでもないですよ。ただ、父も母もあの辺りに長かったようです。」
「藤沢の郊外と、蓼科の山奥じゃ、随分とギャップが大きいでしょう。」
「そうですね。でも、夫の長年の夢だったので。」
「へえ、旦那さんの夢だったの。夫の為に山奥へ引っ込むことも厭わない貞淑な妻って訳ね。小説みたい。」
「そんなんでもないんですけど・・・。」
貴子は朱美に乗せられて、ついついプライベイトな事を喋ってしまっていることに気づいていない。何を喋っても行きずりの見知らぬ人という安心感があったのだ。
その時、車掌が検札にやってきた。朱美はさっと席を立つ。
「ごめんなさい。ちょっとお手洗い。」
そう言うとさっさと車掌の居る傍へ歩いて行く。充分貴子から離れた距離に来てから朱美は切符を出して車掌に見せる。
「あの、本当の席は違うんだけど、偶然知ってる人に出遭ったものだから。その席の客が来たら、席、移りますから。」
「承知致しました。よろしく。」
そう言って、車掌は朱美から離れてその車両のたったもう一人の貴子のほうへ歩いてゆくのだった。
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