アカシア夫人
第三部 忍び寄る男の影
第二十八章
貴子たちが蓼科の山荘に移ってきてから、二箇月が経過した。季節は初夏を迎えようとしている。初夏と言っても、高原のそれはまだ肌寒い日もあるくらいだ。昼下がりの午後に日が差していれば、貴子は自分の寝室から直接出ることが出来るバルコニーのウッドデッキにデッキチェアを出して本を読んで寛ぐというのが日課だった。バルコニー正面は落葉松と白樺の雑木林で、二階部分にあるので、適度にプライバシーも保たれているのだ。
その日もお気に入りの堀辰雄の小説を読んでいたのだが、あまりにぽかぽかと温かい陽気だったので、つい、うとうと午睡になってしまっていた。
啄木鳥が樹をつつく音が遥か遠くから聞こえているようだったのが、次第に大きく聞こえるようになり、貴子はぼんやりとしながらも目を覚ました。その時、妙に覗かれているような視線を感じたのだった。
まだウッドデッキに凭れ掛かったまま、目を擦りながら正面の林を何気なくみていて、突然はっとなった。少し離れた樹の梢に男が昇っていたのだ。誰も居ないと安心しきって、寛いでいたので、それでなくとも短いスカートの裾は肌蹴て太腿を露わにしていた。びくっと起き上がって慌てて裾を下げる。
それから身を起こして、林の中に目を凝らす。男は器用に太い幹の上に上がっていて、何やら作業をしているようだった。こちらを覗いていたのかどうかは貴子には判らなかった。しかし、目を覚ます前にはじっくり見られていたかもしれなかった。
貴子は慌てて身繕いを整えると、階下に降りてゆき、サンダルを突っかけて表に出てみた。男はまだ樹の上に居るようだったので、藪の中だが男に近づいて行ってみる。
(あ、あのバードウォッチャー・・・。)
樹の上の男は遠目からも、見覚えのある岸谷という名の自称バードウォッチャーである事がはっきり判った。
「何をなさっていらっしゃるの?」
声が届くぐらいまで近づいたところで、貴子は思いきって訊ねてみた。
「ああ、奥さん。巣箱ですよ。鳥の巣箱を取り付けているんです。」
そう言う男の手の先を見ると、なるほど郵便受けを小さくしたぐらいの正面にぽっかり黒い穴の開いた箱が見える。
取り付いたらしいところで、男が器用に両手、両脚を突っ張りながら樹から降りてきた。
「森のあちこちにこうして巣箱を掛けてやってるんです。繁殖の季節になると、小鳥の卵を狙って蛇がやってくるので、こうして巣箱を作って、保護してやっているんですよ。」
ボランティアでやっている事らしかった。しかし、自分の山荘の前で樹に昇っている男が居るというのはちょっと気味悪かった。しかし、だからと言ってそれを咎めることは貴子には出来なかった。
(隙を作らないように、少し自分でも注意しなくっちゃ・・・。)
そう自分に言い聞かせる貴子だった。
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