get out

アカシア夫人



 第五部 新たなる調教者




 第四十八章

 「あれっ、奥さん・・・。」
 「えっ、貴方は確か・・・。岸谷さんって仰ってたかしら。」
 「はっはっは。自称、バードウォッチャーですよ。奇遇だなあ、こんな所で出遭うなんて。」
 突然、岸谷とばったり出遭ったのは、母親が生きていた頃、よく連れ立って出掛けていた西銀座デパート前の路上だった。久々に東京へ出てきたので、銀座を歩いてみようと思ってやってきたのだった。
 岸谷はいつものよれよれのジャケットに望遠レンズの付いた写真機をぶら下げた姿とは違って、スーツにネクタイという格好だったので、声を掛けられるまで気づかなかったのだ。
 「まさか東京でお会いすることがあるなんて、私も思ってもみませんでした。」
 「実は今、近くで個展をやってるんです。すぐそこのギャラリーです。よかったらちょっと寄ってみませんか。」
 「え、個展って。あの、写真のですか。」
 「ええ、まあそうです。ちっちゃな個展ですけど。お時間、あります?」
 「えーっと、どうしようかしら。」
 「ここでばったり出遭ったのも何かの縁ですから。どうぞ、こっちです。」
 貴子は強引に引き寄せられるように、岸谷がやっているというギャラリーへ案内される。元々は小さな画廊のようだった。銀座にはこの手の店が幾つかあるのは知っていたが、入ってみるのは初めてだった。
 「ちらっとだけでもいいですから、観てみてください。特に何も買わなくていいですから。僕は、ここのオーナーとこれから打合せがあるんで、ここで失礼します。」
 そう言うと、貴子を店内に招きいれただけで、岸谷はまた出ていってしまった。
 店内にはスーツの若い女店員が一人居るきりで、客は他には誰も居ないようだった。
 「いらっしゃいませ。」
 女店員がお辞儀をするので、貴子も会釈を返す。
 殆どが森の中の鳥類を望遠で撮った写真だった。森の風景もあって、幾つかは貴子にも見覚えのある場所のようだった。
 特に誰か解説してくれる訳でもないし、写真には題名も解説もない。鳥の名前が小さな札で貼られているぐらいだ。貴子は特に鳥類や写真に深い興味がある訳ではない。こんなものかと思いながら、見飛ばすように写真の前を通り過ぎていく。
 しかし奥のほうの一枚の前で貴子の足が止まった。何故か一枚だけ人物を撮った写真があったのだ。所謂ポートレートというものだろう。上品そうなドレープの付いた長めのドレスを纏って斜め向こうをむいている。背景は林の中だった。下に「すずらん夫人」とだけあった。何かの記念写真でもなければ、スナップ写真の類でもない。正面を向いていないので、頼まれて撮ったものでもなさそうに思われる。他にもいっぱいあるうちの一枚のような気がした。

gallarylady

 貴子はその写真の女性の表情というのか憂いを帯びたような目線が気に掛った。悲しいでも淋しいでもない、しかし決して笑ってはいない何とも言えない憂愁に満ちた表情に釘付けになったのだ。何かに訴えているような、訴えても応えてくれないことを嘆いているような、そんな感じがしたのだ。
 誰かに訊いてみようかと見回してみたが、先ほどの女店員は入ってきた別のお客に応対していて、他には誰も居ない。
 (ふうん、すずらん夫人か・・・。今度、カウベルで岸谷さんを見かけたら、訊いてみようかしら。)
 「どうもありがとうございました。」
 女店員が丁寧にお辞儀で見送る。結局貴子は何も訊くこともなく、ギャラリーを出たのだった。

madam

  次へ   先頭へ



ページのトップへ戻る