cycling

アカシア夫人



 第五部 新たなる調教者




 第五十一章

 「ねえ、私でも自転車に乗れるようになれるかしら。」
 いつもの注文取りに来た三河屋の俊介に、貴子は思いきって切り出してみた。
 「えっ、自転車?乗れないんですか。」
 (やっぱりそう言われてしまったか。)
 貴子は俊介に迂闊に持ちかけたことを後悔し始めた。しかし、俊介はそんな貴子の表情を敏感に読み取ったようだった。
 「あ、大人の女の人で、自転車に乗れないって、別にそんなに珍しくはないですよ。」
 慰めるようにすぐ付け足した俊介だった。
 「私ね。小さい頃、自転車に乗ろうとして、坂から転げ落ちて大怪我したことがあるの。それで、それ以来自転車が怖くて。」
 「そうなんですか。でも、ちょっと練習すればすぐ乗れるようになりますよ。」
 「でも、いい大人が自転車の練習するなんて、恥かしくない?」
 「ううん、そうですねえ・・・。」
 ちょっと考え込んだ俊介の顔を見て、やはり恥かしい事なのだと改めて貴子も思う。
 「そうだ。清里の牧場で練習すればいい。」
 「清里?」
 「観光地の清里ですよ。あそこならレンタサイクルあるし、牧草地の上なら転んでも平気だし。それに観光地って、平日に行けば結構空いていて、人が少ないんですよ。こっそり自転車練習するんなら、平日の清里がいいと思うな。」
 「へえ、そうなんだ。」
 清里なら、若い頃、会社の仲間と大勢で出掛けたことがあった。確かに観光地で若い人も多かった。でも平日の清里がどうなのかは貴子も知らなかった。
 「僕なんか、こういう商売だから休日って休めないでしょ。だから清里なんて平日しか知らないんですよ。」
 「俊介君でも、清里なんて行くんだ。」
 そう言われて俊介は頭を掻く。
 「高校の時のダチに誘われて。行ったんですよ、平日に。そいつも店があるんで。」
 「俊介君のガールフレンド?」
 「違いますよぉ。男のダチっ。実は、ナンパに行こうって誘われたんですよ。でも大失敗。平日だったんで、殆ど観光客は居なくて。当然、若い女の子も。」
 貴子はくすっと笑ってから、すぐに訂正した。
 「ナンパも大事よね。若い男の子には。そうじゃないと草食系男子になっちゃうものね。」
 「あ、だから俺。付き合いますよ、自転車の練習に。ちょうどいいじゃないですか。平日なら俺、休めるもん。」
 「ええっ、悪いわぁ。そんなこと、頼んだら。」
 「いいっすよ。それに奥さん。車、運転出来ないんでしょ。清里はそんなに遠くないけど、車じゃないと、ちょっと行きにくいから・・・。」
 貴子は心を大きく揺さぶられる。俊介に後ろを持っていて貰って、自転車の練習をする、それはまさしく東京のサイクルショップで貴子が思い描いていた姿だった。
 (夢でしかないと思っていたけど、平日の清里なら案外いいかもしれない。)
 そう思い始めた貴子だった。

 日取りは一週間後の月曜に決めた。和樹に遠い出張が入って、間違っても早めに帰ってくることがない筈の三日間の初日だ。俊介も月曜日が一番休みが取り易いというのだ。
 その日は朝から浮き足立つ気持ちの貴子だった。しかし和樹の前では、そんな素振りを見せないように細心の注意を払った。
 「いってらっしゃい、貴方。」
 いつもの月曜の朝のように、和樹が駅まで駆ってゆく赤いレンジローバーを見送ると、貴子は出発の準備を始める。
 貴子は普段ミニスカートしか穿かない。しかし自転車の練習をするのにさすがにミニスカートという訳にはゆかない。キュロットパンツも和樹が嫌いなので一枚も持っていなかった。すると野良仕事の真似事のようなことをする時に穿くジーンズしかない。その中でも一番スキニーなタイトのものにして、その上にゴルフ用のミニスカートを穿き、ロングブーツに合わせた。これで少しだけ女っぽくすることが出来た。
 「あれっ、いつもの配達の車じゃないんだ。」
 俊介はフォルックスワーゲンの古い車に乗ってきた。ビートルというタイプだというのは貴子も知っていた。
 「ダチに借りてきたんすよ。だって清里行くのに、幾ら何でも軽のワゴンじゃね。」
 「そうね。」
 貴子も笑いながら答える。

 清里の牧場まで一時間ちょっとのドライブだった。狭いキャビンに男と女、二人だけで思ったほど気詰まりでなかったのは、俊介がつとめて明るく振舞ったせいだった。貴子も若い頃のデートのような気分になっていた。
 レンタサイクル屋が隣にある牧場の脇に俊介は車を乗り入れる。思った通り、平日なので閑散としている。それでも目当てのレンタサイクル屋は営業はしていた。

 貴子が乗り易そうな、軽快車風のを選んで俊介が借りてきた。通常は観光地などを巡る道のほうへ向かうのだが、貴子等は、牧場の中のなるべく平らな牧草地の隅へ向かった。
 「いいですよ。後ろ押さえてますから、漕ぎ出してみてください。」
 「いいこと、離しちゃ嫌よ。怖いから。お願いっ。ゆっくりね。」
 「そう、その調子。いいですよ。」

 小一時間もしないうちに貴子は一人で乗れるようになった。
 「じゃあ、僕も一台借りてくるから、少し清里の町の中、廻ってみましょうか。」
 「いいわよ。」
 貴子も、もうすっかりデート気分になっていた。

madam

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