アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第五十六章
三河屋を通じて注文した電動自転車はすぐに届いた。持ってきて呉れた俊介の前で、すぐに貴子は乗ってみせることが出来た。清里での特訓の成果だった。
「ねえ、この自転車だけど、まだここに置くのはどうかと思うの。主人にまだ相談してないし・・・。」
「ああ、それじゃあ借り農地の脇にある、農具小屋の裏に駐めておいたらどうですか。鍵だけ付けとけば誰のか判んないし。」
「そうね、そうするわね。」
借り農地なら和樹や貴子も少しだけ借りているので、時々行くことがあった。山荘から歩いていっても大した距離ではなかった。あの裏の軒下に駐めて置けば、たしかに誰のかは判らない筈だと貴子も思ったのだった。
電動自転車が使えるようになって、俄然、貴子の行動範囲は広がった。アカシア平の自分の山荘と山小屋喫茶カウベルの行き来しかなかった和樹が留守の日々が、隣の別荘村、すずらん平や、からまつ平などを廻ることも出来るようになったし、以前大変な思いをして生理用品を買いに行った雑貨店へも簡単に行けるようになった。車で送って貰わなければ行けなかった茅野駅前の商店街へも、少し時間は掛るが、自分一人で行くのでも苦にはならなくなった。
最初のうちは、噂話から夫に知れるといけないとの思いから、頭にスカーフを巻いてサングラスを掛けるという気の使い様だったが、走りなれてみると、アカシア平には自分の家以外は無いので、他の人には滅多に出遭わないし、アカシア平以外の別荘村なら、別荘村同士の行き来は案外ないので、あまり他人の目を気にすることはないのだと分かってきた。
夏に差し掛かって少し暑くなってきたので、貴子は農作業用のジーンズの裾を思いっきり切り詰めて、ショートパンツ風に仕立てて自転車に乗る時はそれを穿くことにした。歳相応の格好とは言い難かったが、他人の眼を気にしなくて済むのが高原別荘地のいい所とも言えた。
電動自転車が届いた数日後、三河屋の俊介が珍しく声を潜めて貴子を勝手口に呼んだ。
「遅くなりましたけど、やっと届きましたよ。」
茶色の封筒に紐を掛けてある小包だった。宛先は俊介になっている。
「開けてありませんから。お代は、いつもの請求書の中にわからない様に混ぜておきますので。」
「あ、ありがと・・・。」
中身が判っているだけに、貴子は俊介を前にして、恥ずかしさにちょっと俯いて品物を受け取ったのだった。
早速、夫が居ない日の午後、居間に据え付けてある大型液晶テレビで視聴してみる。近所には誰も棲んでいないのに、音声を出すのが憚られて、ヘッドホンを付けてこっそり観るのだった。
内容は貴子が想像したものにほぼ近いものだった。古い閑静な住宅地や別荘地に棲む未亡人や別居中の夫人が、近隣の若者や御用聞きと過ちを犯すというような内容だった。中身を俊介が知っているという事を思い出し、つい自分と俊介の関係と重ね観て顔を赤らめてしまうのだった。
(すずらん夫人って・・・。若しかして、すずらん平に棲んでいる夫人って事かしら。)
そうなると、さしずめ自分はアカシア夫人かしら、などとも思ってしまう。今度、一度電動自転車を走らせて、すずらん平を巡ってみようと思い立つ貴子だった。
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