アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第五十章
久々のカウベルだった。夫が居る間には、夫が言い出さない限り行くことが出来ないからだ。しかも前回、夫が行こうと言い出したのは、自分に辱めを与える為だったのだ。
一番奥のテーブルに岸本がいつもの身形で珈琲を呑んでいた。貴子はその傍へゆっくり近づいていく。貴子の気配に気づいて男が顔を上げた。
「あ、この間はどうも。」
「こちらこそ。写真、観させて頂きました。」
「詰まんなかったでしょ。あ、良かったらどうぞ。」
岸本は相席を勧めていたのだ。夫の居ないところで知らない男ではないにせよ、一緒のテーブルになるなど、後でどんな仕打ちを受けるか判らない。しかし知られっこないと思ったのと、あの写真のことを訊いてみたい誘惑に勝てなかった。
「じゃ、失礼します。面白かったですよ。でも・・・。」
「でも?」
「一枚だけポートレートがあったでしょ。あれが気になって仕方なかったんです。」
「ああ、あれか。」
「確か、すずらん夫人って書いてあったと・・・。」
「あれは唯の冗談ですよ。頼まれて撮ったものなんです、あれは。ポートレートは滅多に撮らないんで。」
「何だかとても・・・、何て言うのかしら。審美的っていうのか、曰くあり気で。」
「不思議な表情でしょう。何かを訴えてくるような、訴えても無駄と悟っているような。」
「そうそう。そんな感じでした。」
「変わった表情が撮れて、誰かにも観て貰いたくて、つい一緒に飾ってしまったんです。」
「そうだったんですか。時々やるんですか、ああいう個展?」
「ええ、まあ。・・・。そうだ。他にも面白い作品があるんです。良かったら今度、自分のアトリエへ観にきませんか。」
「ああ、そう。今度、主人が一緒なら。」
「あ、そうですね。」
「それじゃ、お邪魔しました。」
貴子はマスターが注文を訊きに来る前に席を立って、いつもの自分の席へ向かうことにした。聴きたかったすずらん夫人の意味も訊きそびれてしまっていた。
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