アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第五十九章
次の朝、貴子が起きた時には、和樹はもうゴルフへ出掛けてしまった後だった。すぐに着替えて身支度を整えるとウッドデッキの様子を観る。すっかり乾いてしまって、跡形もない。それでもそのままでは気がすまない。貴子は一旦一階に降りると、花壇の水遣り用のリールホースを裏庭から持ち出し、二階のバルコニーに再び戻る。バルコニーの隅にも水遣り用の水栓が設けてある。そこに身を屈めてホースを繋ごうとする。
ふと、貴子は後ろから覗かれているような気配を感じる。振り返ってみるが、勿論誰もいない。
(気のせいかしら・・・。)
そう思いながら、そのまま床の水栓に手を伸ばして身を屈めてしまうとミニスカートからお尻が覗いてしまいそうなので、今度は横に脚を折ってしゃがむようにする。
リールホースに水栓を繋ぐと、ウッドデッキ全体に水を放出して、洗い流す。もう痕は残っていないと思っても洗わずにはいられないのだった。手摺りの前は特に念入りに水を流すのだった。
洗い終わって、ほっと息を吐き、ホースを外すのにまた不用意に身を屈めるとやっぱり誰かに覗かれているような気がしてならないのだ。
何度見廻してみても、落葉松と白樺の林と、後はあるのは岸谷が掛けていった巣箱ぐらいなのだ。
(そう言えば、あの巣箱、なかなか鳥が棲みつかないわ。繁殖期ではないからかしら。)
貴子は、あの時、岸谷が確か、繁殖期とか、蛇と卵がどうのこうのと言っていたような気がしたのを思い出す。でも、正確にはどういう話だったかは思い出せなかった。
「もしもし、朱美さん・・・ですか。」
何度も躊躇ってから漸く、朱美に貰った名刺の番号に掛けてみた貴子だった。
「もしもし、何方、そちら?」
「あ、あの・・・。先日、茅野から東京まで電車で一緒だったものですが・・・。」
「あ、もしかして。貴方、貴子さん?貴子さんでしょう。」
「ええ、そうです。今、お時間、大丈夫でしょうか。」
「あら、構わないわよ。どうしたの?」
「・・・・。あ、あの・・・。」
「どうしたの、何か相談?」
「あ、ええ・・・。まあ。」
「あら、歯切れ悪いわね。何か相談事があって掛けてきたのね。」
「ええ。・・・。あの、朱美さんて、カウンセリングって仰ってたと思うんですけど。そういう方面の事で相談するのって、出来るんですか?」
「そういう方面って、えっ、セックスのこと?」
「あ、は、はい・・・。」
「あのね。私の仕事は男性専門なの。だから、男性でないとお金貰っての診察は出来ないのよ。でもお友達としてなら、相談に乗ってあげる。あくまでも仕事ではなくってよ。」
「ええっ、いいんですか?」
「勿論よ。女同士、何でも話してっ。」
「あの、実は・・・。夫とのことで、最近、ちょっと心配になってきていて・・・。」
「何が?セックスの事?ははあ、セックスの事なんだ。」
「あの・・・。どうも言いにくいんですけど。最近、夫が求めてくることについて行けないような気がしていて。」
「ははあ、普通じゃないことをしてくるのね。貴方に。」
「ええ、まあ。」
「どういう事を?縛る・・・とか?」
「ええ、まあ・・・。」
「それだけじゃないって事ね。じゃあ、何かしらね。鞭を使うとかあ・・・。」
「それも無かった訳じゃあないんです。けど、それよりももっと・・・。」
「鞭はまだ許せるって事ね。ふうん、すると・・・。」
「いや、鞭だったら許せるって訳じゃないんです。でも、もっと恥かしい事を。」
「もっと恥かしい事ね。何だろ。えーっと・・・。」
「いや、それは言えないです。でも、段々エスカレートしてゆくみたいで。」
「何処までいっちゃうんだろうって・・・。」
「そう、そうなんです・・・。それと・・・、実は、そんな事に自分が慣れっこになっていくんじゃないかって、心配で堪らないんです。」
「ううん、なるほどね。今、旦那は居ないの、傍に?」
「ええ、ゴルフに出掛けてしまったので、夕方までは帰って来ないと思います。」
「他人に言えないような恥かしい事をしてきて。それでいて、自分もそれに慣れてしまいそうなのが心配なのよね。」
「ええ、まあそう・・・。変よね。こんなこと、相談するなんて。いや、もういいです。」
「え、待って。切らないで。大丈夫よ。そんなの、本当はみんなそうよ。みんな心配なのよ。」
「え、そうなんでしょうか。」
「私はいろいろ男性だけど相談に乗ってあげているから実例を一杯知ってるの。世の中の夫婦なんて、結構、同じ様なことで悩んだり、心配しあったりしてるものよ。」
「そうなの?」
「例えば、旦那が奥さんに目の前で、おしっこしてみろって強要したりする・・・・。」
貴子は心臓が止まるかと思った。自分の事を言い当てられたような気がしたのだ。
「そういうの、よくあるの。奥さんはとても不道徳な事だと思うわけよ。でも、意外としてみると気持ちが良かったりする訳。そうすると、自分は変態なんじゃないかって、今度は心配になってくるの。ま、これは例えばの話よ。」
「た、例えば・・・ですよね。」
「トイレ以外でおしっこをするって意外と気持ちいいものなのよ。男の子はだから、小さい頃よく、外でおしっこをしたりするの。立小便ってやつ。あれが気持ちいいのよ。だから大抵の男性は子供の頃、それで免疫になっちゃうわけ。今更、立小便して気持ちよくなるかって。でも多少は気持ちいいものらしいけど。
そんでね。女の子はまずそういう事はしないでしょ。だから大人になっても免疫が無い訳。大人になって初めてそのことが快感だって気づいたりする訳。だから余計、いけないことだと思っちゃうわけ。自分が怖くなる訳。ほんとよ。
嘘だと思ったら、今度バスルームで誰も居ない時に、裸になって立って出してみなさいよ。気持ちいいものだって分かるから。」
「そ、そんな事・・・。」
「ね、旦那さん。もしかして最近になって、今までしてもみなかったこと、色々試してやろうとしてない?」
「ううん、そう・・・なのかな。」
「そう、きっとそう。それ、いい事よ。前に言ったでしょ。倦怠期から不能になるって話。それから何とか脱却しようと思っているのよ、貴方の旦那さん。」
「そうなのかなあ・・・。それって、いい事なのかなあ・・・。」
「貴方は嬉しくない訳?新しい事、試してみるって。」
「それは・・・、多少は興味、無くはないけど・・・。」
「夫とじゃあ、嬉しくないとか。」
「え、いや・・・。何だか支配されてるみたいで、嫌なんです。特に夫には。」
「夫とじゃないと、されてみたいとか。」
「・・・・。」
「ふうん、なるほどね。」
「あの、わたし。やっぱり変じゃないかしら。こんな事相談するなんて・・・。」
「いやいや、極々普通よ。よくある話よ。ねえ、いい事。夫が何か仕掛けてきたら・・・。そう、恥かしいようなことをしろとかしようとか言ってきたら、思いっきり恥かしがるのよ。それで嫌そうな顔をしながら、仕方ないって風に従うの。もう許してくださいって言いながら、させたり、してあげるの。男って、そういうのにぞくぞくってするんだから。間違いないから。別にいいじゃない。夫とじゃ嫌だと思ったら、目を瞑って、別の人としてるんだって、思い込めばいいの。そうすると、楽しくなってくる筈。でも楽しくなってもそういう顔しちゃ駄目。嫌です、恥かしいです、もう許してって、そう顔に出しながらするのよ。」
「そんな事、出来るかしら。」
「出来るわよ。女って、そういうものよ。」
「なんか、少し安心してきた。相談してよかった。ありがと、朱美さん。」
「また、心配になったらいつでも電話してきてね。お仕事で出れない時もあるけど。そん時はこっちからまた掛けるから。いいこと?」
「わかった。ありがとう。」
「じゃあね。貴子さん。」
電話を切った朱美は、魚が釣り針に掛った時の大きな手応えを感じていた。
次へ 先頭へ