アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第四十五章
「ご免なさい。私ったら、おトイレが近くて、すぐ行きたくなっちゃうの。貴方は大丈夫?」
「えっ・・・。」
貴子は動揺する。トイレに行きたくてもいけないのだ。いや、正確にはトイレには行けるが、普通にすることが出来ない、その事を思い出させられてしまったのだ。朱美には分からない筈なのだが、耳元が赤くなるのを感じてしまう。
「い、いえ・・・。大丈夫です。」
「あら、そう・・・。行く時は何時でも言ってね。すぐ退くから。」
貴子が動揺するのを分かってて、わざと言ってみた朱美だったが、貴子がそれに気づく筈もなかった。トイレに立ったのも、検札で貴子の隣が本来の席ではないことがばれてしまうのを防ぐ為のカムフラージュだった。
「貴方は専業主婦のようね。」
「ええ、結婚までは働いていたんですけれど。結婚を機に辞めてからはずっと・・・。」
「所謂、寿退社ってやつね。最近はあまり聞かないけど。」
「そうなのかしら。私たちの頃は皆、そうだったんですけどね。貴方は何かお勤め?」
朱美は謎めいた目で貴子を観る。どこまで本当の事を明かそうか思案していたのだ。
「ええ、ちょっと特殊なお仕事を。」
「特殊・・・?」
「そう。まあ、メンタルケアアドバイザーとでも言うのかしらね。」
「えっ、メンタル・・・?」
「臨床心理士とも言うわ。カウンセリングって言ったほうが分かるかもね。」
「カウンセリング・・・なんですか。」
世間に疎い貴子には想像がつかない。きょとんとした顔をしている。その貴子の反応に思わず吐いた嘘が面白くなってきた朱美は、頭の中を回転させて次の台詞を考えていた。
「世の中の殿方って、いろいろ悩みがあるものなのよ。特に性的な事に関してはね。」
「性的?」
「そうよ。短小、包茎、早漏、勃起不全・・・。」
次々に並べられる用語に貴子は付いてゆけない。しかし、勃起不全というのを聞いて、何となく分かった気がした。
「一番多いのが、中年を迎えた男性、というか夫婦の倦怠期・・・かな。」
「倦怠期・・・。」
「そう。そういう男性達の悩みを聞いてあげて、アドバイスをするの。」
ふふふっと、朱美は謎めいた笑みを浮かべる。
(満更、嘘でもないか。普通の事では満足出来ない男たちに鞭や縄でアドバイスをしてるようなものだものね。)
「ど、どんなアドバイスをするんですか。」
「あら、貴方も興味ありそうね。」
「い、いえ・・・。ただ、想像もつかなかったので。」
「いいのよ。誰でも、そういうものは興味のある事よ。ただ、口に出して言わないだけ。私なら見ず知らずの行きがかりの他人だもの。何言っても平気よ。」
「あ、あの・・・・。私は、ただ・・・。」
みるからにうろたえて狼狽を隠せない貴子の様子に、朱美は益々面白くなってきた。
「ね、貴方。フェラチオとかする?夫に対して・・・。」
急に小声になって、貴子の耳元へ朱美はそう囁きかけたのだ。貴子は突然の事に恥かしくなって、思わず両手で顔を蔽ってしまう。
「あら、嫌だ。純情なのね。そのうろたえぶりからすると、知らないって訳じゃなさそうね。でもね、世の中には、中年になるまで経験が無いって人も結構居るの。それどころか、奥さんと正常位以外ではしたことがないってのまで居るのよ。だいたい、そういうのが中年位になってくると倦怠期に入って、勃起不全になっちゃうの。まあ、不能って奴。」
朱美のあからさまな言い方に貴子はどぎまぎしてしまう。しかし、医療ケア関係者だと思って疑わないので、真剣に拝聴してしまっているのだった。
「時には実技指導もするのよ。女の縛り方とか。」
朱美は貴子の反応が楽しみで、表情を見逃さないように顔をじっと見つめている。
縛るという言葉は明らかな動揺の反応を示していた。
(判りやすいのね、この奥さん・・・。)
「そうだ。貴方も何か相談したいことがあったら連絡くれるといいわ。ここに名刺があるから。」
朱美はそう言うと、ハンドバッグの中から剥き出しでいれてある薄いピンクの名刺を貴子に差し出した。
おそるおそる受け取って表をみると、「インモラルセックスパートナー あけみ」とだけ書いてあり、あとは携帯番号だけが記されている。
「インモラル・・・?」
「しっ。声に出して読んじゃだめ。これは隠語なの。この手のメンタルケアのスタッフは本当の職業を書いちゃ駄目なの。誰だって精神科に掛ってるなんて知られたくないでしょ。だから何だか分からないようなカタカナ言葉を使うの。」
朱美の説明は理に叶っているように貴子には聞こえた。インモラルという響きの言葉は何処かで聴いたような気もするが、どんな意味だったか思い出せない。
「何か悩みがあったら、是非相談してね。ただ、この名刺は人には見つからないようにしたほうがいいかもね。」
そう言われて貴子はショルダーバッグの内側のポケットに大事にしまうことにした。
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