抱きつき

アカシア夫人



 第九部 捨て身の捜索




 第八十八章

 ピン・ポーン。
 (あれ、今頃、誰だろう。)
 夫がそろそろ帰ってくるのではと思うが、夫は帰宅した時にドアチャイムを鳴らすことはまず無い。
 「あ、なんだ。俊ちゃんじゃないの。あれ、今日は配達の日だっけ。」
 俊介は昨日、配達物を持ってきたばかりだった。それで、すぐに帰さず夕飯をご馳走して、その後、身体を合わせたばかりだった。
 「あ、済みません。そのう・・・。昨日、配達したものの中に、別の家の荷物を間違えていれちゃったみたいで、ちょっと調べさせて貰ってもいいですか?」
 「あ、そう。まだ、荷物整理してなかったから段ボールのままよ。いいから、勝手口に廻って。」
 貴子が勝手口の錠を外しに行くと、俊介も外を廻ってすぐにやってきた。
 「そのテーブルの上にあるわ。」
 「済みません。」
 俊介が配達物を入れた段ボールの中身を掻き回して探し物をしているのを、任せておいて、貴子は遣り掛けていた、食器洗いのほうへ戻る。
 最後の皿の一枚を拭き終えたところで、貴子は何やら後ろに視線を感じていた。振り返ろうとした瞬間に後ろからいきなり抱き締められた。
 「あ、嫌っ。俊ちゃんたら、駄目っ。」
 「奥さん。もうボクっ、駄目です。我慢出来なくって・・・。」
 貴子の肩を抱いて無理やり振り向かせると、唇を合わせようとする。貴子は一瞬力が抜けて受け容れようとしたが、すぐに正気に帰って俊介を突き飛ばす。
 「駄目よ、俊ちゃん。昨日、一度だけって言ったでしょ。夫がもう何時帰ってくるか判らないの。」
 夫と言う言葉を聞いて、俊介もはっとなる。
 「す、すいません。ボク・・・。」
 急に抱きついてしまったことを後悔して、俊介は項垂れていた。そのしょげた姿を見ていると、貴子も何だか哀れになってしまった。
 「いいのよ。そんなにしょげなくても。若いから、仕方ないのよ。ただ、少し自制はしなくては駄目よ。したくなったら、すぐするなんて、ケダモノよ。あ、そんな意味じゃなくて・・・。ケダモノも、時と場合によっては好きだけど。」
 「えっ・・・。」
 「そんな、深く取らないでね。今は、とにかく駄目。そうだ・・・。ねえ、今度、私の頼みを誰にも秘密で聞いてくれない。そしたら、ご褒美をあげるわ。」
 ご褒美と聞いて、俊介は顔を上げる。そして、貴子の目をみて、その意味を確かめる。
 「明日、もし夫が帰って来ないようだったら電話するから、朝のうちに私が電動自転車を置かせて貰っているあの農機具小屋まで来て呉れない。午後とか夕方だと、突然、ふっと帰ってくることもあるから。」
 「はいっ。分かりました。」
 俊介は素直な小学生のように、明るい顔になって貴子に頷くのだった。

 「ねえ、まだ蓼科に帰らなくて大丈夫なの?」
 「ああ、全然大丈夫。さっき、妻から電話が掛かってきて様子を訊くから、あと二回注射をしなくちゃならないから、もう二、三日掛かるって言っておいたのさ。」
 ここのところ、会社の用意した社宅には帰らず、毎日のように朱美のアパートにしけこんでいる和樹だった。それを朱美のほうも、嫌がってはいない。
 「奥さん、一人きりにしておいて、心配じゃないの?」
 「は、全然。誰かに付け狙われているなんて、あいつの妄想だよ。へんなドラマでも観て、ヒロインにでもなり切ってるんだろう。ま、もう少し一人きりで淋しがらせておいたら、その後が燃えるかもしれない。」
 「あら、そんな事、言ってて大丈夫かしら。本当に変な虫がついちゃうかも。」
 「大丈夫。そんな事、出来ないようにあそこ、ちゃんと剃りあげてあるから。」
 「ま、悪い人ね。」
 朱美は貴子を騙して、エステサロンで貴子を裸にさせて慌てさせたときのことを思い返していた。あの時の慌てようったらなかった。恥毛を剃り落されているのが、人に知られてしまうのではないかと思ったのだろう。それほど恥かしいことなのだろうと朱美は思うのだった。

 貴子は暫く前から、俊介が自分に対して性欲を募らせていることを如実に感じ始めていた。若い男の子が自分に性的な魅力を感じてくれていることは嬉しくはあった。賢くはないが、誠実なところを貴子も気に入ってはいた。しかし、だからと言って、積極的に不倫をしたいパートナーとは違うと思っていた。
 貴子は何時の間にか、うまく俊介のことを手懐けたいと思い始めているのだった。
 (彼になら、出来るかもしれない。)
 貴子はある決意をこめて、手にした鍵束を握り締めるのだった。

 約束の場所で俊介と落ち合った貴子は、辺りにひと気がないことを念入りに確認してから俊介を小屋の中へと導いたのだった。
 「犯罪に近いことよ。それでも、出来る?」
 犯罪という言葉を敢えて使ったのだったが、(に近いこと)と少しぼやかした。
 「奥さんが、内緒でオレにやってくれって言うんだったら、俺、やります。」
 貴子はもう一度、じっくり俊介の目をみる。
 (大丈夫、彼なら出来る・・・。)
 自分への真摯な思いこそが、何でも克服させるだろうと、貴子は確信した。
 「貴方に忍び込んで欲しい場所があるの。これは、そこの鍵よ。」
 そう言って、貴子は鍵束を俊介に翳してみせたのだった。
 「ど、ど、何処の鍵なんスか?」
 俊介もさすがに、犯罪(に近いこと)と聞いて、緊張を隠せないようだった。

 俊介はどうやって、そんな鍵を手に入れたのかを聞きたがったが、貴子は明かさなかった。ただ、相手はそんな合鍵があることは知らない筈だから、慎重に進めるようにと釘を差したのだった。
 万が一の時のことを考えて、貴子も傍に潜んでいて、もしも家主が戻ってくるような事があったら、緊急の合図をお互いに決めておいて報せることも約束させた。その上で、決行は、俊介の三河屋の仕事が休みになる月曜にすることを決めたのだった。
 俊介と秘密の約束事をするのに、自分の山荘ではなく農具小屋を指定したのは、頻繁に山荘に俊介を呼ぶと、誰かに見られて疑われることを懼れたからだった。それでなくてもここ数日、俊介が山荘を訪れたのは数回に及んでいた。しかし、この事は偶然だったのだが、貴子には幸いしていたことに貴子自身気づいてはいない。和樹が企てた罠が事前に盗聴器で洩れて相手に知られてしまっていたのだったが、貴子と俊介の間の企ても事前に洩れてしまいかねなかったのだ。

madam

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