アカシア夫人
第五部 新たなる調教者
第四十六章
「本当にトイレ行かなくていいの?」
朱美は特急電車が新宿に到着するまでに三度目のトイレに立っていた。自分だけ頻繁にトイレに立つことが恥かしくて言っているように朱美はそう念を押した。
「えっ、ええ。いいの・・・。」
そう答える貴子だったが、実際にはトイレに立とうか迷っていたのだ。尿意は確かに募ってきてはいた。しかし、トイレで普通に足せないのだと思うと、すんなり立ってゆくことが出来ないでいたのだ。そうかと言って、他人の女性の隣で座ったままする訳にもゆかない。出来れば、動いている車内のトイレではなく、広々した個室でそっと出したかったのだ。
(新宿に着けば、何処かデパートのトイレにでも入れるわ。)
それまで何とか我慢しようと貴子は考えたのだった。
電車が漸く新宿駅のホームに滑り込んできた。
(やっとトイレに行ける・・・。)
「じゃ・・・。」
「ねえ、貴子さん。ちょっとお願いがあるの。少しだけ付き合って貰えないかしら。」
「えっ・・・。」
(じゃ、これで。さようなら。)そう口に出しかけた瞬間に朱美のほうから切り出されてしまったのだった。
「そんなに時間、掛らないから。ちょっとだけ。そこの新宿のターミナルデパートの上。」
ターミナルデパートの上と聞いて、つい頷いてしまった貴子だった。どのみち、駅に着いたらデパートの上のほうの階にトイレに行くために直行しようと思っていたからだ。
日曜の昼前の新宿はとても混雑していた。駅の改札からターミナルビルのエレベータまではすぐに到達出来たのだが、人垣で混雑していて、エレベータはなかなかやって来ないし、来ても乗る人が多過ぎてすぐには乗れない。その間にも貴子には限界が近づいていた。
そんな様子を朱美は気づかれないように、チラッ、チラッと横目で観察していることに、貴子は気づいていなかった。最早、貴子の額には脂汗が滲み始めていた。
「いいのよ。出しちゃえば・・・。」
「ええっ、どうして・・・。」
朱美が独り言のように呟いた言葉に貴子は反応してしまっていた。
「あ、いや。エレベータのお客の事よ。もたもたしてないで、係員が早く誘導して出しちゃえば良いのにって。」
「あ、そう・・・。そうよね。」
「あ、やっと今度は乗れそうね。」
「え、ええ・・・。」
貴子たちはぎゅうぎゅうに押されながら、狭いエレベータの庫内の奥に押し込まれる。
「ね、何階なの。行きたい場所って。」
「えーっとね。確か・・・、最上階のひとつ手前だったかな。」
貴子を絶望感に落とし込みそうな朱美の返事だった。エレベータは停まらずに進んでは呉れなさそうだった。
「貴子さんったら、大丈夫。気分でも悪いの?」
「えっ、な、何でもないわ。ただ、ちょっと人があんまり多いんで。」
貴子は知らずしらずのうちに、手にしたショルダーバッグの上のほうをぎゅっと握り締めていた。その様子に朱美も限界ぎりぎりで貴子が我慢をしているのを確かめる。
「次、三階でございます。次、停まります。少々お待ちください。」
エレベータガールの言葉が、貴子には拷問のように聞こえてくるのだった。
貴子は途中で降りてトイレに寄らせてと何度も言おうと思ったのだったが、電車内で何度も朱美にトイレに行かなくていいのかと訊かれて大丈夫と答えていたことを悔やんでいた。そのせいで、我慢の限界だとは言えなかったのだ。
5階まで来たところで、貴子は観念した。俯いて、朱美とは反対側のほうを向いて、股を気づかれないように少し開きながら、括約筋を緩める。
(あっ・・・。)
生温かいものが腰の周りに溢れ出たのを感じだ瞬間に思わず声を出しそうになる。
「ねえ、貴子さん。あれっ。」
突然、隣の朱美が貴子の腕を取って振り向かせようとする。貴子はパニックになった。
「駄目っ、今、触らないで。」
「ごめんなさい、朱美さん。さっきはきつい言い方をしてしまって。」
漸くエレベータの庫内から降りることが出来て、貴子は朱美に謝る。しかし、エレベータ内ですっかり放尿してしまって、少し貴子も落ち着きを取り戻していた。
「あら、いいのよ。どうでも良い事で声を掛けたのだから。大好きな韓流スターのポスターが見えたので教えようと思っただけ。韓流スターなんて、興味ないわよね。」
「え、いえ、まあ・・・。」
出したばかりで、急いで歩くと漏れ出しそうな気がして、ゆっくりとしか歩けない貴子を朱美はどんどん引っ張っていく。
「この階に私の好きな宝飾店があって、男の人へのプレゼントを買いたいんだけど、貴子さん、センス良さそうだから、選ぶの手伝って欲しかったの。」
貴子はネクタイピンを朱美が選ぶのに、意見を求められたのだ。
(夫だったら、きっとこれがいいと言うだろうな。)
そう感じた品物をつい貴子は朱美にアドバイスするのだった。
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