アカシア夫人
第一部 不自由な暮らし
第一章
(遠くでカッコウが鳴いている。なんだか、眩しい。)
何時の間にか差してきた陽のひかりの眩しさに、手を当てて避けながら、貴子は目を覚ました。
(あれっ、ここはどこだっけ・・・。)
いつもの見慣れた壁紙とシャンデリアがない。暫くぼうっと考えていて、貴子は思い出した。
(そうだ、山荘へ越してきたんだった。)
ゆうべ、あまりに星が綺麗だったので、カーテンを開けっ放しで寝ながら眺めていて、そのまま眠ってしまったらしかった。今は窓の外に真っ青な青空が見えている。ベッドから身を起こして窓の外の景色を眺める。一面落葉松の林が広がっている。その中に幾つか白樺の樹が混じっている。そしてその向こうには八ヶ岳の峰が見え隠れしている。
隣の部屋で夫はまだ寝ているままのようだった。起こさないようにそっと身支度を整えると、外に出てみることにする。
そとに出てみると、ひんやりした空気が爽やかだった。
(これが蓼科の空気なんだ。)
まだ慣れない蓼科の朝の空気を貴子は胸いっぱいに吸い込む。
蓼科の山荘を買って、引っ越そうと言い出したのは、夫の和樹のほうだった。夫は55歳になったところだ。定年までまだ5年あったのだが、会社が早期定年退職制度というのも設けて、定年より前に退職すると退職金の優遇措置が受けられるというので、応募すると言い出したのだ。とは言っても、完全に退職する訳ではなく、週に三日の勤務で嘱託という身分になり、給料は減るものの、かなり自分の自由な時間が使えるようになるからというのだった。蓄えはそれなりにあったし、自分の親から譲り受けた遺産もあったから、経済的な心配はなかったのだ。
貴子のほうは、今年45歳になったところだ。もともと童顔で、そんな歳には見えないとよく言われる。10歳ぐらい若く見られることも珍しくない。まだ田舎に引っ込むような歳ではないと思ったが、夫の説得に特に抗する理由もなく、一緒についてくる形で蓼科に移り住むことになったのだ。二人居た子供等はもうとうに独立して、今は海外勤務の為ずっと別々に暮らしている。ふたりだけの気楽な暮らしといえた。だから、田舎でのんびり自由に暮らすのもいいかもしれないと貴子も考えたのだった。
和樹と結婚した時は、貴子の親の敷地に家を建てて貰って、そこに暮らしてきた。古くからの藤沢の屋敷だった。貴子は生まれて以来、その地を離れたことが無かった。実家とは所謂スープの冷めない距離ということで、和樹は婿養子になった訳ではなかったが、実質はそれに近かった。実際、何度も食事に呼ばれたりしていた。
しかし、今になってみると、和樹には貴子の実家がすぐ傍にあるということが窮屈だったのに違いない。数年前に父親と母親が相次いで亡くなると、その屋敷を処分して何処か田舎のほうへ移り住むということを考えていたようだ。実際切り出されたのは、最後の親族である叔母が亡くなり、四十九日の法要を済ませた夜のことだった。和樹に意見をする貴子側の親族が居なくなったことが、和樹の背中を押させたのだろうと貴子は思った。
八ヶ岳の見える蓼科高原に家を持つというのは、和樹には長年の夢だったかもしれないが、貴子には寝耳に水のことであった。それでも、若い頃はどちらかと言えば文学少女だった貴子にとって、蓼科高原は憧れの地ではあった。和樹があれこれ説明する移住プランに聞き入っているうちに、次第に夢が膨らんでくるのを貴子も感じるようになっていたのだった。
しかし蓼科の山荘は、実際に移り住んでみると、抱いていた明るい夢のイメージとは少し異なるものがあった。和樹が購入した土地は高級別荘地として大手の会社が開発したものだったが、入居者はまだ少なく、和樹が選択したアカシア平という区域は、まだ和樹と貴子の家しか建っていなかった。不動産バブルの起こる少し前の開発で、広大な別荘区域が幾つも開けたのだが、バブル以降の不況で、売れ行きは思惑から大きく外れていたのだ。
隣家はおろか、一番近い人家というのがそもそも、貴子等の山荘から歩いて30分ほどの山小屋風の喫茶店を営んでいる店なのだった。
和樹は山荘に最寄の駅である茅野駅近くに駐車場を借りて、そこから特急電車で2時間半掛けて、週三日の東京の会社での勤務に通勤していた。茅野の駅までだって車で20分ほど掛る。
貴子は大学生の時に取得した運転免許は持っているものの、車の運転が出来なかった。実家は運転手付きの車を持つ家庭で育った為、車を自分で運転するということが全く無かったのだ。都会に棲んでいたこともあって、ずっと運転する機会を持たずに来てしまった。車が必要な折りでも最初は夫の運転で、暫くして子供が大きくなってからは二人の息子のどちらかに運転を頼むということが多かった。
蓼科に越して来てみて、車の運転が出来ないことがどれだけ自分を孤立させることになるか初めて気づいたのだった。
「車が運転出来ないと不便かしらね。」という貴子に、和樹は「週4日は僕が居るんだし、三河屋という何でも屋があって、配達もしてくれるんで、生活品から食料品までいちいち買物に出なくてもみんな運んでくれるから便利なんだよ。」という答えに、安心しきっていたのだった。
和樹は東京の会社に出る際には、毎日、片道2時間半も掛けて通うことは出来ないと、引っ越すなり、会社の近くに社宅としてのアパートを借りて貰っていた。三日だから週二回泊るだけと最初のうちは言っていたのだが、飲み会などがあると、三泊したりすることも結構多かった。最後は最寄の茅野駅から車で帰って来なければならないせいだと言い訳をするのだった。
実は、貴子は他人には言わないが、自転車に乗ることも出来なかった。小さい頃から運動神経は決していいほうではない。それに加えて、小さい頃、自転車の乗り方を練習しようとして誤って下り坂を転げ落ちてしまい、膝に大きな痣を作ってしまったことがある。それ以来自転車に乗るのが怖くてとうとう大人になるまで自転車に乗れずに来てしまったのだった。いざ蓼科の田舎に引っ込んでみて、自動車はおろか自転車さえ自分一人では乗れないことが、如何に自分を孤独にするか、思い知らされたのだった。しかも、今となっては、自動車教習所へ通うこともままならない。自転車だって大人が初めて乗るのに、後ろで支えてくれるような人も居ないのだった。
最寄り駅のある茅野の街まで、夫の車に乗せて貰えば20分ほどで着くのだが、自分一人の時に歩いていこうものなら、片道1時間は悠に掛るのだった。
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