中国籍

派遣通訳女子 屈辱の試練



 七

 美姫子が鍵のかかった抽斗の中に確かめたものは中国政府が発行したパスポートと、日本国法務省へ提出した帰化申請書の写しだった。法務局から連絡があり次第、出頭する為に毎日持ち歩いていたのだ。それが、新人歓迎会があるというので、万が一誰かに見つかるといけないと思い、会社の鍵のかかる抽斗に置いていったのだった。歓迎会で思わぬ失態を演じてしまった美姫子はバッグに入れっ放しで宴会に出なくて本当に良かったと思ったのだった。しかし、美姫子は部長の鬼木が実は合鍵を全て持っていて、定期的に社員の持ち物を検分しているなどとは思いもしないのだった。

 美姫子は日本人の父親と中国人の母親から生まれたのだが、出生地は中国だった為に国籍は中国のままだった。両親は結婚の約束はしていたようなのだが、実際美姫子が生まれた時にはまだ籍は入っていなかった。その後、父親は日本へ戻る用が出来、そのまま中国へ戻ることはなかったのだ。中国人の母親は中国語は勿論、日本語も話せたので、娘には両方の言葉を教えた。いずれは娘に父親を訪ねて日本へ行かせ、日本人として帰化させるつもりだったようだ。法務局で事情を話した所、父親の戸籍と認知承諾書があれば帰化は認められるだろうとの事だった。日本での留学が終わった後、正式に日本国籍が取得出来るまでは正規の就職は難しいので派遣会社に登録し、通訳の仕事をしながら日本国籍が取れるのを待っていたのだった。
 美姫子は派遣での採用の面接の際に、嘘を言ってしまったことを後悔していた。しかし自分の日本国籍が取れるのはもう時間の問題だと思っていたので、採用される事を優先して中国国籍であることを伏せておいたのだった。
 とにかく日本国籍を取得して正規の就職活動が出来るようになるまでは、例え少しぐらいセクハラを受けようとも、派遣先の会社にしがみついて耐え忍ばねばならないと心に決めていたのだった。

 「あの、部長。通訳で雇っている派遣の一人に秘書を兼任させるっていう件ですが、どうしましょうか。沢海っていうのが急に辞めちゃったんで。」
 そう部長の鬼木に言い出したのは、鬼木の様々な雑用を一手に引き受けている課長の磯貝だった。最初、鬼木が匠の技統括部が古い建屋を改築して匠の技統括センタという海外の研修生を教育する施設に変わり、そのセンター長に部長の鬼木がなるので、秘書役が欲しいと言い出し、それを派遣の女性で賄いたいと言い出した時に、沢海がいいのではと進言したのは磯貝だった。
 磯貝に取ってみれば、それまで雑用を一手に押し付けられていたのを女性秘書が代りをしてくれるのは願っても無いことだったのだが、数が足りてない通訳を別の業務に当てるのはちょっと運営上は難しいと考えていた。そんな中でスペイン語関係の通訳、翻訳業務に当てていた沢海が期待していたほどはスペイン語に堪能ではないことがだんだん判ってきて、それなら雑用係として秘書に任命して使ったほうがいいのではと考えたのだ。それが沢海から「こんな部署では働けない」と突然言い出されて派遣元からも人を替えるからと言われて困っていたのだ。
 「秘書だったら、倉持美姫子にやらせればいい。」
 事もなげに言ったのは部長の鬼木だった。
 「倉持ですかあ。・・・。」
 磯貝が言い淀んだのは、倉持は通訳や翻訳の仕事では派遣社員の中で一番能力が高かったからだ。それを秘書という雑用係として取られるのは工数運営上は痛かった。しかし、磯貝は鬼木が倉持を気に入っている。それも女性として、しかも女性の身体がであることには気づいていた。秘書を設定するなどというのは所詮、部長の我が儘だ。しかし、鬼木のワンマン振りは長年付き添っているだけによく理解していた。所詮は逆らえないのだ。
 「わかりました。考えておきます。その代り沢海の後任と、新たな派遣の追加はよろしくお願いしますね。」
 「ああ、大丈夫だ。先方にももう打診してあるんだ。」
 「そうですか。なら・・・。」
 「それよりも、今度センターを開所する前にその準備として朝礼での理念唱和と天突き体操をやろうと思うんだが、どうかね。」
 「えっ? 理念唱和ってあの、我々はなんとかでえすとか皆で大声を発するあれですか。今の時代、ああいうのは古いって言われそうですが。それに天突き体操も、今時そんな事やってる部署なんてないですよ。」
 「何を言ってるんだ。研修センターっていうのは所員が一丸となって働かなければうまく機能しない組織なんだぞ。その為には古かろうがそういう意識付けが大事なんだ。」
 「えっ、そうですかね。ま、私は別にいいですが・・・。」
 「おい、大熊は確か自衛隊出身だったよな。そういうのに一番慣れている奴だ。まずはあいつに音頭を取らせて始めることにしよう。」
 言い出したら聞かない鬼木に、半ばあきらめて従うことにした磯貝だった。

 「という訳で、センター開所前の準備の一環として本日から朝の朝礼の中で理念唱和と天突き体操をやることになりました。指導はこちらの大熊主任に当面やって貰うことにします。宜しいですね。それでは大熊主任。前へ出てお願いします。」
 朝の朝礼に集められた部員たちはざわつき始める。中でもとりわけ眉を潜めて顔をしかめたのは所員の中で唯一女性陣である派遣社員たちだった。
 「それでは指名を受けました不肖、私大熊が音頭を取りますので、宜しくご唱和ください。ここに掲げております当センター理念は、私と部長とで吟味に吟味を重ねまして作りあげたものであります。これを私がまず一行ずつ読み上げますので、その後全員でご唱和ください。それでは始めます。
 ひとーつ、我々は次の事を着実に果たしてゆく集団をめざしまーす。」
 「わ、我々はー、次の事を着実にー、果たしてゆくー、集団をーめざしまあすっ。」
 「声が小さいっ。もう一度ーっ。」
 「我々は―、次の事を着実にー、果たしてゆくー、集団をー、めざしまあすって。」
 「よおしっ。次。日々、業務の改善っ。」
 「日々、業務の改善っ!」
 「五現主義の遵守っ!」
 「五現主義の遵守っ!」
 そんな軍隊調の理念唱和が朝礼で始まったのだった。十項目ほどの理念が唱えられたところで、天突き体操が始まった。
 「それでは次に天突き体操に入りますっ」
 大熊は皆によく見えるように一段高い檀の上へ上る。
 「まず、肩幅よりちょっと広く脚を開いて直立してください。」
 皆がざわざわしながらも、大熊が指示した体勢を採る。
 「両手は手の平を上にして肩より少し高く挙げるっ。」
 「そう。そしたら膝を緩めて腰を落として少し屈んでぇーっ。」
 皆が嫌そうな顔をしながらも、指示されたポーズを取る。スカートを穿いた女性たちは膝を開かないように注意しながら身体を少し屈める。
 「私がよいしょーって言って両手を天に向けて突き上げるので、その後真似をして掛け声を上げながらよいしょーって唱和してください。じゃ、いきます。よいしょーっ。」
 「よいしょっ。」
 「駄目っ。もっと大きな声で。勢いを付けて。よいしょーっ。」
 「よいしょーっ!」

 その日の昼休みの給湯室はたった二人になってしまった女性陣たちでその日から始まった理念唱和と天突き体操の話で持ちきりだった。
 「ねえ、嫌よね。今朝のアレ。」
 いつもは控えめな石上が自分から切り出したのだった。
 「ああ、天突き体操の事?」
 「それもだけど、理念唱和っていうのも。時代錯誤っていうのか、あんなのを会社でやらされてるなんて知れたら恥ずかしいわ。」
 「そうよね。確か昭和の終り頃、バブルのはじける前の時代に会社で流行っていたって聞いたことがあるわ。」
 「私たちまで巻き込まないで欲しいわ。あの自衛隊上りだっていう大熊とかなら似合いそうだけど。」
 「いったい誰が言い出したんでしょうね? まさかあの部長とは思えないけど・・・。」
 「いや、案外あの部長辺りが怪しいわ。あの部長が言い出せば誰もいやとは言えないんだから。部下たちに反抗心がないか試してるのよ、きっと。」
 美姫子は石上の意外な分析に驚いていたが、満更外れてもいないのかもしれないと思うのだった。
 (あの部長だったら、やりかねない事かもしれないわね。)
 しかしその言葉は美姫子の胸にしまっておいて、口には出さないのだった。

 「えーっと、今日から朝礼の理念唱和と天突き体操は声掛けを皆に交替でやって貰うことにする。えーっと最初は・・・、そうだ。お前、やれっ。」
 最初に始めた大熊が指名したのは、何と美姫子なのだった。その日も部長に裏で命令されたかなり短めのタイトスカートだった。声掛けを皆の前でやるとなると一段高い檀の上にあがらねばならない。美姫子はふと朝礼の際に最後列にひとり腕組みをして立って見ている部長のほうを振り返ってみる。鬼木は素知らぬ顔をして横を向いている。
 (案外、部長の差し金で最初から指名は決まっていたのかもしれない・・・。)
 ふと美姫子はそんな気がしたのだ。
 「はいっ、やりまーすっ。」
 嫌なのを顔に出さないようにわざと明るく元気そうにしてみる美姫子だった。
 美姫子がミニスカートから伸びる片脚を檀の上に載せた際に、男性社員の目が一斉にそこに集中したのを美姫子は気づかない振りをしてさっと檀の上にあがる。
 「それでは、皆さん。私のあとにご唱和ください。・・・。ひとーつ、われわれはー、次のことをーっ、着実にーっ、目指していくーっ、集団をー、目指しまーす。」
 「ひとーつ、我々はー・・・・・。」
 理念唱和のほうは無事になんとか終えた。が、問題は天突き体操のほうだった。美姫子が短いタイトなスカートで天突き体操のポーズをとれば、それでなくてもぎりぎりに短いスカートは更に上にずれ上るのは間違いなかった。それでも美姫子はやるしかないのだと諦め、ゆっくり脚を横に開く。そして一度下を向いて息を深く吐いてから気合を入れた。
 美姫子が腰を下に沈める。男性社員の目が一斉に美姫子のスカートの裾に注目している。

天突き体操

 「いきますっ。よーいしょっ。」
 「よーいしょっ。」
 その日の天突き体操は拷問に近かった。下着は覗きこそしなかったが、ぎりぎりのところまでスカートは捲れ上っていた。男性社員たちの合わせる掛け声も心成しかそぞろな感じだったのは、檀の上に立つ美姫子のミニスカートとそこから大胆に覗く太腿に気を取られていたからに違いなかった。
 「ご苦労さまでした。今日も一日、頑張っていきましょう。」
 最後の挨拶を終えると、裾を抑えるようにしながら檀を降りた美姫子だった。

 朝礼の最後に部長の鬼木が短い訓示を述べるとその日の朝会は終わった。席に戻ろうとする美姫子を大熊が呼び止める。
 「ちょっと、君。いいかい。」
 大熊が廊下のほうを顎で指す。先に立って出て行く大熊に美姫子は仕方なく後を追う。
 「朝会で皆の前に立つのに、その格好はないだろ。」
 「え? か、格好・・・ですか?」
 「その短いスカートだよ。見せつけてんのか、お前?」
 「あ、いえ。部長からこういうのを穿いてくるようにって、言い渡されてますから。」
 ちょっと憤慨しながら言い切った美姫子だった。その返答にしかし大熊はうろたえる。
 「え、部長が・・・。あ、済まん。今のは無かったことにしてくれ。俺は何も言ってないから・・・。な、そうだろ。何も言わなかったよな。」
 美姫子が口にした(部長が)という一言が大熊を蒼褪めさせていた。それで、美姫子は大熊が自分を選んだのではなく、部長から指名するように言わされたのだと確信を持ったのだった。大熊にしてみれば、自分の威厳をみせつけるように美姫子をひと言窘めるつもりでいたのだろう。しかし、自分が指名するように言われた美姫子自身も短いスカートを穿いてくるように命じられていたとは思いもしなかったのだった。

mikiko

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