派遣通訳女子 屈辱の試練
二
初出勤の日、美姫子は何を着てゆくか随分迷ったが、結局面接で使うことの多かったタイトなリクルートスーツにすることにした。ぴったりしたサイズのジャケットは美姫子の自慢である豊満な胸を強調していたし、スカート丈は下品にならないぎりぎりの短さだった。その服を着てゆくと、男性面接官の眼は明らかに違っていた。それでも会社は落ち続けた。採用氷河期と呼ばれていて、落ち続けているのは美姫子に限らなかったからだ。
派遣ではあるが、採用内定の連絡を貰った時はやっと念願が叶ったのだと美姫子は安堵に胸を撫でおろした。会社が中国語が出来る人材を探していて、自分の中国語の実力が漸く役に立ったのだと思った。いや、思おうとしていたのだ。
(まさか・・・。あの鬼木とかいう男の・・・。)
鬼木と名乗る部長の一声で採用が決まったのではないかという疑惑は拭えなかった。そんな予感があったからこそ、集団面接の後、個別の面談時に鬼木の破廉恥な振る舞いに唇を噛んで堪えたのだった。
「おはようございます。」
事務所の入り口で大きく深呼吸してから、ドアを開けて大きな声で挨拶する。頭を上げた美姫子の目に二人の女性が既に腰掛けているのに気づいた。
「あ、君。こっち来て一緒に座って。」
そう呼びかけたのは、面接の日に鬼木部長の横で愛想ばかりよくしていた磯貝と名乗った男だと美姫子も思いだした。鬼木の腹心というより所謂「腰巾着」というやつだろうと美姫子も感じ取っていた。
二人いた女性の横に腰掛けて息を呑む。
「あ・・・・。」
一緒にあの日面接をした残りの二人だったからだ。美姫子はてっきり自分だけが受かったのだと内定の電話を貰った時思い込んでいた。
(だって、あの時残されたのは私だけだったのに・・・。)
屈辱的な思いをしたけれど、自分だけが受かったのならそれも仕方ない事と思おうとしていたのだった。
「あら、貴方も一緒だったの。じゃあ、わたしたち全員受かった訳ね。」
「私、貴方だけ最後に呼び止められたので、てっきり貴方一人が受かったんだと思ってた。」
暗そうな印象だった石上という女と、なんでもずけずけと物を言う背ばかりが高い沢海という女が次々に声を掛ける。
「いいえ、私こそ今度も駄目かなと思ってたのよ。」
美姫子は内心に思ったのとは別の言葉を口にした。
「じゃ、君たち。揃ったから説明を始めるよ。」
採用に受かった三人が確認し合っているのを遮って磯貝が説明を始めた。
「えーっと、君たちの仕事は基本は通訳だ。海外かお客様が来られた時と、外国人研修生が実習に来た時だ。それぞれ外国語毎に担当して貰うから。えーっと、石上君だっけ。君は取りあえず英語担当。そうみ・・・ってたっけね、君。」
「ええ、そうです。憶えていてくれたんですね。沢海(さわうみ)と書いてそうみです。」
「ああ、いいから。君は南米系の人。スペイン語とポルトガル語だ。」
「はーい。頑張ります。」
「あ、いちいちいいから。そして、倉持君だったかな。君は・・・、英語も得意だけど、取り敢えずは中国語担当。」
「承知しました。」
美姫子は簡潔にだけ答えておく。
「通訳は毎日仕事がある訳ではないので、それ以外の時は海外実習生用マニュアルのそれぞれの言語版の翻訳作業に携わってほしい。原稿とかは後ほど用意する。そして、取り敢えずこの部署には女性は君たちだけなので、お茶出しとかもお願いしたい。・・・。ん?何か・・・?」
「いえ・・・。特には。」
沢海がちょっと不服そうな顔をしかけたが、何も言わずに引き下がる。派遣契約にはお茶汲みなどの雑用は含まれないと書いてあった筈だが、会社や職場によっては無視されることも多いのだ。折角得た派遣の職をつまらないことで失いたくないのは皆、同じだった。
「じゃ、席を教える。沢海君はここ。その前が石上君。一番前の部長席の前が倉持さん。」
石上と沢海は君付けだったが、美姫子の時だけさん付けになったのに美姫子は気づかなかった振りをする。女性は部長席に向かって縦一列に並ぶ格好になる。通路を挟んで男性達の席が並んでいる。
「じゃあ次は給湯室と更衣室に案内するから付いてきて。」
そう言うと、磯貝は先に立って事務室を出て廊下へ向かう。
「あ、それから今日は初日だからアレだけど。明日からはもっとラフな格好でいいからね。」
磯貝が後から付いてくる美姫子たちに振返って言う。石上は地味な灰色のカーディガンにこれまた地味な長めのニットのスカート。沢海は黒っぽいジャンパーにダボッとしたズボンでテレビ局のADみたいな恰好だった。石上は微妙だが、沢海は既に充分ラフな格好と言えた。暗に自分に向かって言われたのだと美姫子は理解した。
「えーっと。ここが給湯室。隣の資源管理部と共同で使うことになるから。後で挨拶に行っておいて。茶器とかポットとかはそれぞれなので、こっちの戸棚のほうのを使って。給湯機だけは共用なので。じゃ、更衣室は一階なので、階段下りるよ。付いてきて。」
三人は美姫子を先頭に並んで磯貝に付いて階段を降りて行く。
二階の給湯室にあたる場所に女子更衣室と書かれた扉があった。その扉を磯貝が何の合図もなく無造作に開く。
「えっ・・・。」
思わず声を挙げてしまった美姫子だったが、磯貝は何のためらいもなかった。
「ここが更衣室。更衣室って言っても、派遣の人達は制服じゃないからまあ荷物置き場みたいなもんかな。ここもさっき言った隣の資源管理部と共用なので。ちなみにあっちは女性は二人。そことそこ。だから、君たちはこっちのロッカーを使って。鍵はこれっ。鍵に番号が書いてあるから。」
「あ、わかりました。」
更衣室は素っ気なくロッカーが並んでいて、真ん中に更衣室らしく大型の姿見が一つだけある。十人分ぐらいロッカーはあるが、使われているのは極一部のようだった。
「あ、さっき渡し忘れてたけど、こっちが机の抽斗の鍵だから。貴重品は自己責任で管理してね。」
「あ、はいっ。判りました。」
美姫子から順にロッカーの鍵と抽斗の鍵を受け取る。
事務所に戻る際に、先頭に居て一番磯貝に近かった美姫子は小声で訊ねてみる。
「あの・・・、部長さんは今日は・・・。」
「ああ、部長だったら来る日と来ない日があるんだ。本社のほうに掛け持ちで席があってね、向こうとこっちを行ったり来たりだから。」
「ああ、そうなんですね。」
美姫子は部長が初日は居ないらしい事が分かり、ほっと安堵する。
「ねえ、さっき言われていたお隣の資源管理部に挨拶に行かない?」
美姫子は残りの二人に提案する。磯貝からの説明と案内がひとしきり終わってそれぞれの席に着いた所だった。
「そうね。行っておいたほうがいいわね。」
何かにつけ消極的に見える石上が答える。
「いいわよ。敵陣・・・、あ、って訳じゃないかもしれないけど、偵察しておく必要はあるわね。」
何かにつけあけすけなく喋る沢海が合わせる。
「倉持さん、最初に声を掛けてくださる? 私、初対面の所って苦手で・・・。」
そう言ったのは石上だった。沢海はそんな事は私の仕事じゃないからって顔をしている。仕方なく、美姫子が先に立って声掛けすることにする。
「ごめんください。私達、今度隣の事務所で仕事をする事になった派遣の者です。挨拶に参りました。」
十人ほどが島になって並ぶ席に居た者たちが一斉に顔を上げる。事務所に二人だけと訊いていた女性は入口の一番手前に向かい合って座っていた。面接の時に案内を受けた人事部の女性と同じ制服を着ていた。上っ張りだけを制服にしている男性社員は半分くらいしか在席していない様子だった。
「隣の匠の技統括本部の事務所で通訳などの仕事を主にする、私は倉持美姫子と申します。えっと、こちらが・・・。」
「あの・・・、石上智子と申します。」
「あ、私は沢海美樹。さわうみと書いてそうみと読みます。よろしくね。」
突然の来訪に面食らっている様子の資源管理部の女性二人だったが、年下らしい一番手前の女の子が立上って挨拶する。
「あ、ども。こちらこそ、よろしくお願いしますぅ。」
「部長はあそこだから。うちらのボスっ。」
事務所で一番偉いらしい部長を示されて、美姫子は残りの二人に目配せして部長と呼ばれた人の席へ向かう。
「今度、隣の匠の技統括本部の事務所で働くことになった三人です。なにかとご迷惑をお掛けすることがあるかもしれませんが、宜しくお願い致します。」
「あ、こちらこそ。何か分からないことがあったら、あの女の子たちにでも訊いてください。」
丁寧にお辞儀をして入口近くに戻り、最後に女の子二人に挨拶する。
「給湯室と女子更衣室を一緒に使うことになるので、何か至らない所があったら何でも言ってください。宜しくお願いします。」
「あ、や、そんな・・・。こちらこそ。何か分からないことがあったら何でも訊いてくださいね。」
「ありがとうございます。それではこれで失礼いたします。」
「失礼します。」
「・・・す。」
三人で軽く頭を下げて資源管理部を後にする。
「ね、見た? あの子っ。不二子ね。」
年配の方の女子社員が後輩の女の子に話し掛ける。
「えっ、不二子って?」
「峰不二子に決まってるでしょ。ルパン三世、知らないの?」
「あ、あれ・・・。」
「そう、ボン、ボイン。凄いわね。これみよがしで。あとの二人は辛気臭いけど・・・。」
「姐さん、そんな事言って・・・。」
事務所で一番若い女性社員は先輩の事をつい(姐さん)と言ってしまうのだった。
「じゃ、今日はこれで失礼します。」
美姫子が代表で事務所の男性陣に向かって挨拶する。
「あ、ご苦労さんでした。明日からもまたよろしく。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
「失礼します。」
「・・・す。」
美姫子たち、派遣社員三人は定時になるや揃って挨拶をして事務所を後にする。中でも一人、美姫子は事務所で一番偉い鬼木部長がその日は現れなかったことにほっとしていた。
「彼女たち、何とか無事今日はこなせたみたいだね。」
案内役の磯貝もほっとしていた。
「やっぱ、派遣だけど女性が職場に居るってのはいいですね。」
一番年の若い男性社員の戸川が口をはさむ。
「派遣だからいいって面もあるんだぜ。何かトラブルがあれば、チェーンジ!って出来るんだからな。」
そうデリヘル嬢の交換みたいに言ったのは、事務所で一番年上の大熊という古株だった。噂では離婚して独り身の大熊は、キャバクラ通いへデリヘル活用も盛んらしかった。
そんな話をしている三人の後ろに何時の間にか部長の鬼木が立っていた。
「派遣の女たちはもう帰ったのか?」
「あ、部長。こんな時間にいらしてたんですか。ええ、さっき帰ったところですが。」
背後の部長の声に気づいて振向いた磯貝が答える。
「そうか。お前らも今日はもう帰っていいぞ。」
「部長はどうなさるんですか。」
「俺はまだ大事な用が残ってるんでな。ま、身体検査ってやつだが。」
「え、身体検査・・・? ま、そう仰るなら我々もお先に失礼します。」
部長の鬼木は自分の席に着いて、最後まで残っていた三人の部下が帰るのを見届けてから自分の抽斗を開く。鬼木が取り出したのは合鍵の束なのだった。
次へ 先頭へ