silling

アカシア夫人



 第一部 不自由な暮らし



 第十章

 (やっぱり店でしてくるんだった。)
 貴子はどんどん募ってくる尿意にちょっと焦っていた。夏前の陽気にしては妙に冷たく感じる高原の風のせいもあったようだ。身体がぶるっと震えてしまう。
 貴子は足を止めて、前方と、歩いてきた後方を振り返ってみる。何時も通り、擦れ違う者は全くない。特に山小屋喫茶から自分たちの山荘のある側は、まだ他の別荘が全く建っていないこともあって、人の行き来を見かけることは全くと言っていいほど無かった。
 貴子は肩に掛けているショルダーバッグを開いてみる。ティッシュはちゃんと入っている。もう一度、ぐるりと辺りを見渡してみる。道から逸れたところにこんもりとした小さな潅木がある。そこまでは藪はそんなに深くはなかった。
 貴子はついつい忍び足になりながら、その潅木へ近づいていく。そしてもう一度あたりを見回してからスカートをたくしあげ、下に穿いているショーツを膝まで下ろす。
 そっとしゃがみこんだら、堰を切るように、小水が迸り出てきた。思ってもみないほどの勢いで、目の前の潅木の根元を濡らしてゆく。
 (さすが、大自然の中ね。)
 自分の行為を誤魔化すかのように、貴子は独り言を洩らしてしまう。
 「はあっ・・・。」
 最後の一滴までがしたたり落ちると、思わず安堵の溜息を吐いてしまう。
 その時、カサッと藪のこすれあうような音がした気がした。貴子は慌ててショルダーバッグに手を伸ばし、ポケットティッシュから一枚出すと、股間を拭う。それをしっかり丸め込むと、ちょっと思案してから、藪の奥に投げ込んだ。
 貴子がショーツを引き上げながら、立ち上がった時、かなり遠くだが、男が双眼鏡を目に当てて貴子のほうではない遥か彼方を見ている姿を見つけた。
 ギャーッという鳥の声がして、木々の上のほうで、何かの鳥が羽音をたてながら飛び去っていった。男の目はその鳥のほうを追って向きを変えている。
 (ま、まさかね・・・。)
 見られていた訳ではないと、貴子は自分で自分に言い聞かせる。そうして音を立てないように細心の注意を払いながら道に戻った。家に向かって歩きながら、林の奥に佇んでいる男の真横を通り過ぎる際には、わざと気づかない振りをしながら、その場を歩み去った貴子だった。

 男は、その夫人が完全に立ち去ってしまったのを確かめてから、コンパスを取り出し、さっきまでその女性がしゃがみ込んでいた方角を再度確認する。そして肩に掛けた望遠レンズの付いた重い写真機を担ぎなおし、そちらの方向へ向けて歩き始めた。
 その藪はすぐに見つかった。さすがにまだ湯気が立ち昇っているということはないが、しっとり濡れた草に痕が残っている。男はカメラをその濡れた叢に向けてシャッターを切る。それから、少し離れたところに投げ捨ててある白い塊を拾い上げた。微かに残る臭いが、それが何であるかを物語っている。男はポケットから鳥の羽根の採集などに使っているジップロックのビニル袋を取り出し、大事そうに仕舞いこむと再びそれをポケットに戻して、道に戻ることにしたのだった。

madam

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