アカシア夫人
第一部 不自由な暮らし
第三章
そのバードウォッチャーらしかった。顔の上に上げたのは双眼鏡らしかった。それもかなり大型だ。よく見ると、これもかなり大型の望遠レンズの付いたカメラを肩からぶら下げているのが遠目でも見えたのだった。
(邪魔をしてはいけないわね。)
そう思いながら、音を立てないように静かに歩みを進めた貴子だったが、誰も他には居ない山道の奥で、男と二人きりというのが気詰まりでもあったのだ。
息が切れそうになる頃、漸く山小屋風のカウベルの建物が見えてきた。
「おや、いらっしゃい。お一人ですか、今日は。」
「ええ、そうなの。主人は仕事で。運動に歩いて来ちゃった。」
車にも、自転車にも乗れないことを隠してわざとそう言った貴子だった。
「今日もダージリンにしますか。」
「ええ、お願い。・・・。ねえ、マスター。この間来た時、奥に居たひと。常連さんなの。」
貴子はさっき見かけた男のことをさり気なく訊いてみることにした。
「えーっと、岸谷さんかなあ。」
「あの、バードウォッチャーとか言ってるって人。」
「ああ、岸谷さんですよ。ちょっと変わった感じの人でしょ。」
「本当に鳥を追ってるんですね。ここに来る時、見かけたものだから。」
一瞬、マスターは眉を顰めたようにも貴子には感じられた。
「この近くに棲んでいらっしゃるの。」
「いや、そんなに近くではないですね。やっぱり山小屋に住まわれているらしいですよ。このアカシア平とは別の区域ですけど。」
「ふうん、そうですか。」
それからマスターは、この界隈の幾つかの分譲別荘地が、アカシア平、すずらん平、しらかば平などと、樹の名前を冠した区域に分かれていることを教えてくれた。貴子も不動産屋から説明を受けた際にそんな事を聴いたような気がした。マスターはこんな山奥でもこうして店を開いていけるのは、幾つもの区域があっても喫茶店のようなものはここ一軒しかないからなのだとも説明してくれたのだった。
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