アカシア夫人
第一部 不自由な暮らし
第八章
貴子は、和樹に教えて貰いながらパソコンで作った転居通知の葉書を見返していた。山荘を中央のバックに和樹と並んで立っている自分の写真を改めて見つめてみる。和樹はにこやかに笑っているが、貴子のほうは不安げな顔で表情が硬い。これからの山荘での暮らしに抱いている何ともしれぬ不安が表情に出てしまったのだろう。さきほど嬉しそうににっこり微笑んでいる昔の写真の自分を見てしまったせいかもしれないと貴子は思う。
転居通知の束を裏返すと、住所録を元に、手書きで宛先を書き始めた。宛先不明で戻ってきてしまうことを考えて、貴子は必要以上に多めに昔の知り合いの住所を次々と書いてゆく。
夫のほうの親族の住所録は既に貰っていた。貴子のほうの親戚は、去年叔母が亡くなって、もう出す人が居なくなってしまった。それは、実家のことで、和樹に対して口出しを出来る人がもう誰も居なくなってしまったことを意味していた。従兄弟やその子供等は居るには居るが、結婚して木島姓になって以来、付き合いはおろか年賀状のやり取りもしていない。和樹は、女はそういうものだと常々言っていたし、貴子も何となくそういうものなのかと思っていたのだった。
「奥さ~ん。食料品、すべてこの段ボールに入っていますから。ここでいいですね。」
裏口の扉からいつもの配達の三河屋が声を掛けてきた。台所にしまう荷物が殆どなので、いつも裏口を開けて、そこへ運んで貰っているのだった。
「あ、三河屋さん。ちょっと待って。もうひとつお願いがあるの。」
貴子は台所から、居間に用意していた転居通知の束を取りに行く。貴子はエプロンをしていたが、その下はエプロンより更に丈が短いいつもの赤いスカートだ。貴子が振り向くと、三河屋の配達をしてくれている俊介が目を細める。いつも配達の度に、貴子夫人の脚を垣間見るとどきっとしてしまうのだ。特に今日みたいに、前からだとエプロンで膝小僧が覗くだけなのが、振り向くと赤いミニスカートから伸びる太腿が露わに見えてしまうので、余計にどきどきしてしまうのだった。
「あの、これ。申し訳ないけど、町で投函してきてくださる?ついでの時でいいから。」
「ああ、お安い御用ですよ。どうせ毎日、車で郵便局前、通ってますから。」
笑顔で俊介は答える。俊介はこの家に配達に来るのが楽しみだった。自分よりはずっと歳は上の筈なのだが、若造りのこの家の奥さんには俊介も胸ときめくものが感じられたのだ。
「あれっ。これ、転居通知ですね。ああ、いいなあ。ボクもいつかこんな通知が出せる身分になりたいなあ。」
「あら、顔見ないで。恥ずかしいから。じゃ、今度は三日後ね。またよろしくぅ。」
貴子もウィンクのような笑みを返して三河屋を送り出すのだった。
転居通知の投函を三河屋の俊介に頼んでしまうと、貴子にはすることが無くなってしまった。三河屋の届けてくれた食料品のうちから冷蔵庫、冷凍庫にしまうものを入れてしまうのはあっと言う間のことだった。
夫はまだあと二日間帰って来ない。新聞を読んだり、愛読書を読んだりしていてもそうは時間は潰れない。退屈というよりも人恋しく寂しかったのだ。
(そうだ、どうせ時間はいっぱいあるんだし、この間の山荘までまた歩いていってみようかしら。)
前回一人で歩いていってみて、そんなに大変ではないことが分かった。時間が掛かるのは仕方ないが、蓼科での生活では時間は余りあるほどある。家から出ないと運動することもない。その解消にはあの位の距離を歩くのはちょうどいい位だと貴子は思ったのだ。
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