アカシア夫人
第一部 不自由な暮らし
第九章
「マスター。また来ちゃいました。いつものダージリン、お願いね。」
貴子は山小屋喫茶の名前でもあるカウベルがまだ鳴り終わらない位のうちに声を掛けた。
「いらっしゃい。いつものですね。かしこまりました。」
マスターは、聞かれると丁寧に答えるが、自分のほうからあれこれ訊いたりはしない。貴子にとって一人で喫茶店に入って、「おひとりですか。」などと訊かれるのが一番嫌なことだ。しかしここのマスターに限ってそんなことは考えられなかった。
いつもの、とは言っても夫と来たのを含めても3度きりしかないのではあるが、今までも座っていたカウンターの端の席を取る。高めのスツールなので、今日も穿いてきたミニスカートの裾を気をつけながら腰掛ける。
何気なく店内を見渡すと、前回も居た同じ奥のボックス席に、同じ様にバードウォッチャーと自称する男が独りで新聞を読みながら珈琲を飲んでいる。何時見ても陰気そうな雰囲気が漂っている。
「それでね、野菜でも作ろうなんていうのよ。畑を借りて。」
「確かに畠用に貸し出している土地はあちこちありますよ。今度、地主さんをご紹介しましょうか。」
「そうね。夫が本気なのかちゃんと確かめてからにするわ。言うだけいうけど、本当にやるのかわかりはしないから。始めるだけ始めて、あとは全部私にやらせるなんてことにもなりかねないんですもの。畠を耕すなんていうのも、外国製のトラクターを買って運転してみたいだけかもしれないの。カタログとずっと睨めっこしているのだけれど。」
「外国製というと、ランボルギーニとかですかね。」
「あら、ええそうよ。よくご存知ね。」
「何せ、ランボルギーニと言えば、高級スポーツカーで有名なメーカですからね。男は皆、そういうものに憧れるものですよ。」
「あら、やっぱりマスターは男の味方なのね。」
「はは、そうでもないですよ。」
話は夫が言い出した畑仕事のことから色々と弾んでいた。
湯を沸かしていたケトルが音を立て始めたので、マスターは貴子の前から一旦離れる。
(あんまり長居していないで、そろそろ帰ったほうがいいかしら。)
そう思いながら、尿意を覚えてトイレに寄ってゆこうかと立ち上がって、トイレのある奥のほうの通路に目を転じた貴子は、今しもそのトイレから出てきたバードウォッチャーの男と目が合ってしまった。
そのまま通り過ぎて替わりにトイレに入るのは、躊躇われた。男に自分が用を足している姿を想像されたくなかった。
立ち上がってしまったので、貴子はその為に立ち上がったかのように、勘定書きの紙切れを取り上げた。
「マスター。じゃ、これで。」
「あ、お釣りですね、少々お待ちください。」
マスターは湯をあたらしいサーバーに注ぎ始めていたのだ。
マスターがケトルを置きなおして、レジにやってくる間に男は姿を消していた。
「じゃ、はい。お釣りです。」
釣り銭を受け取った貴子はどうしようか一瞬、躊躇した。が、精算を済ませてしまってから店のトイレを借りるのは気が引けた。
(少しだから家まで我慢しよう。)
貴子が外に出た時には、バードウォッチャーの姿は既に完全に掻き消えていた。
次へ 先頭へ