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アカシア夫人



 第一部 不自由な暮らし



 第二章 山小屋風カフェ カウベル

 その日は夫が仕事で帰ってこない二日目だったが、どうにも寂しさを紛らしたくて、30分も掛る山小屋風喫茶店、カウベルに一人ぼっちで歩いて向かっていた。舗装はされていないが、山の中に切り開かれた一本道は、人に出会うことも殆ど期待出来なかった。山側には自分等の家しかない。なだらかな坂を降りてゆく先には、喫茶店までは家一軒と無いのだ。落葉松の林の中には自分一人の足音しか響いてこない、筈だった。
 カサコソという音が聞こえた気がして、貴子はふと足を止める。風の音ではないようだった。辺りを見回すが人影はない。気のせいかともう数歩踏み出してまた物音を聞いた気がして立ち止まる。さっと振り向いた目の先に黒い人影があった。藪の中である。貴子が目を凝らしてみつめると、人影は何かを持ち上げて顔の前に当てている。
 (ああ、あの時の・・・。)

 貴子が山小屋風喫茶店のカウベルに初めて訪れたのは、1週間ほど前のことだった。夫に近くに喫茶店があるからと一緒に連れられていったのだった。歩くと30分も掛る場所だが、夫の運転する車ならほんの10分も掛らない。
 ギィーッと軋んだ音がして扉が開くと、カランコロンと音がする。ドアにカウベルが付いているのだ。店の名前の由来なのか、そういう名前にしたくて付けているのか分からない。マスターは物静かな顎鬚の中年だった。寡黙だが、素っ気無い訳でもなかった。
「いらっしゃい。どうぞ、こちらへ。」
 グラスを布巾で磨きながら、バーカウンタの前の高いスツールの席を薦める。
 貴子は赤いミニスカートを穿いていた。高いスツールなので、ちょっと気をつけて腰を掛ける。ミニスカートは和樹の好みなのだ。というよりも貴子がミニスカートでいないと機嫌が悪い。もうこの歳では恥ずかしいと少し長めのスカートにしたいと言ってみたこともあるが、格好から若くしていないとすぐに老けてくるぞと譲らない。歳とは思っているが老けたとはさすがに言われたくない。蓼科に来てからは、殆ど他人の目を気にする必要もないので、ずっとミニスカートで通していた。
 「こちらに越して来られたのですか。」
 淹れ立てのマンダリンを和樹に差し出しながらマスターがさり気なく尋ねる。
 「ああ、この先の別荘を手に入れてね。定年退職して山荘に棲むというのが長年の夢だったんです。」
 「へえ、そんな歳にはみえませんがね。」
 貴子にも熱いダージリンを差し出しながら微笑み掛ける。
 「いや、実際には定年前で・・・。会社が早期定年退職ってのを募っていて、応募したんですよ。」
 「はあ、なるほど。奥さんもとても若そうだ。奥さん・・・、ですよね。」
 (まさか親子には見えないだろう)とも思いながら、貴子も笑みを返す。
 「若ぶった格好ばかりしているからですわ。もういい歳ですもの。」
 謙遜して貴子は言うのだが、若くみられることは満更でもない。
 (やっぱり夫に言われたとおり、ミニスカートにして良かった。)そう思い返す貴子だった。その貴子の様子を、店の奥のほうからじっと見つめている目線があった。それに貴子も何気なく気づいていた。薄暗い奥のほうのボックス席で、唯一人で珈琲を呑んでいる。陰気な印象の男だった。高いスツールから投げ出されている貴子のミニスカートから伸びる生脚をひとしきり眺めた後、男は立ち上がった。
 「マスター、ここに置いておくから。」
 コインを幾つかテーブルに載せると、男はマスターに手を振って出ていった。店の常連らしかった。
 「カメラマンなんですよ、ああ見えても。フリーのらしいんですけど、自分ではバードウォッチャーっていってます。この辺りの鳥の写真をずっと撮っていて。趣味なんだか、仕事なんだか、よく判らないんですけどね。」
 「へぇーっ。」
 和樹も興味深そうにその男の後を目で追っていた。
 (バードウォッチャーか・・・。)
 職業名なんだか、渾名なんだか分からないながら、聴き慣れないその言葉が耳に残った貴子だった。

madam

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