妄想小説
訪問者
第四章 探り合い
ピン・ポーン。
その家のチャイムを押すのは二度目だ。前回は割とすぐに出てくれた。しかし、今回は返事がない。陽子はためらったが、もう一度チャイムを押してみることにする。
ピン・ポーン。
少し間があったが、今度はカチャッという受話器を取るような音がしてドアホンから声が聞こえてきた。
「どなたです・・・。」
「あ、あのう・・・。昨日、訪ねた者なんですけど。」
「ああ、昨日の宗教勧誘のオバサンね。もう、話は聞いたから、用済みだよ。」
露骨なオバサンという言葉が陽子の胸にぐさっと刺さった。陽子一人だけで、個別訪問をすると、よく言われることがあった。それが、長谷川京子を伴うようになった理由だ。所謂エサだ。京子が居ると、男は必ず興味を示して応対してくれることが多いのだ。
「あの、昨日お訪ねした時、もう一人と一緒だった筈なんですが・・・。」
京子には、着替えに家に帰ってすぐに電話してみたのだが、電源が切られていて通じなかったのだ。
「一緒だった・・・? ああ、あの若い子のほうね。」
この言葉も陽子にはぐさっと刺さる。男はいつでも若い女にしか気が無いのだ。
「ええ、そうです。長谷川京子っていうんですけど。」
陽子は自分は名乗らないまま、相方の方の名前を出した。
「ふうん、京子っていうのか。少し話を聴いてから帰って貰ったよ。確か、アンタがトイレを貸してくれって言い出して、それはちょっとって言ったら、もう洩れそうだからって慌てて出てったじゃない。待っても帰って来ないんで、その子が困っちゃって、自分が出来る分だけ説明しますって要領の悪い説明をしてから帰ってったよ。」
(トイレを貸して・・・。洩れそうだから慌てて出てった・・・)
陽子は頭の中の記憶をまさぐる。トイレを借りようとしたような気がしてきた。しかし、そこから後のことがどうしても思い出せない。
「ちょっと今、仕事してて忙しいんだ。話はこれ以上もう聴くことはないから勘弁してくれる?」
そう言うとガチャッという音と共にインターホンは切れたようだった。
その家からすごすご戻る陽子は、京子の家を訪ねることにした。電話は出てくれそうもないので、会員名簿から京子の住まいをメモしてきたのだった。
あの日のことをもう一度思い出してみる。京子と一緒にいつものように個別訪問に出たことまでは憶えている。あの家が何軒目だったかは、はっきりしないが、珍しく家の中に招じ入れてくれたのは何となく記憶にある。あの男は自分がトイレを貸してくれと言った。そんな気がしないでもない。我に返った時には公園のベンチで横になっていた。その公園には公衆便所があったのだが、目が覚めた時には既に失禁していた。
(公園のトイレに辿り着くまで我慢しきれなかったのだろうか・・・。しかし、何だってそんな時に居眠りなんかしてしまったのだろう?)
とにかく、何があったのか、京子に訊いてみるしかないと決意を新たにした陽子だった。
ピン・ポーン。ピン・ポーン。
さっきから立て続けにチャイムが鳴っている。おそらく陽子だろうと思った京子だったが、出来れば居留守を使いたかった。しかし、自分が在宅していると知っているかのように、チャイムは鳴り続けていた。
「あの、どちら様でしょうか。」
「ああ、やっと出た。私、陽子よ。早く開けてっ。」
明らかに苛立っているのが判った。声を出してしまった以上、開けない訳にはゆかなかった。ドアを薄めに開けると、当然とばかりに強引にドアを開いて陽子が入り込んできた。
「ご、ごめんなさいね。テレビの音と掃除機の音で聞こえなかったみたい。」
「そうなの。まあ、いいわよ。ちょっと話があるの。あがらせて。」
そう言いながらも、京子の了解を得るでもなく、既に靴を脱いであがりこんでいた陽子だった。
「ねえ、昨日一緒に個別訪問してたわよね。」
「えっ、ええ・・・。そうだったわね。」
京子には昨日のことは少しだって思い出したくない記憶だった。それを目の前の女が蒸し返そうとしているのは間違いなかった。
「私、途中で出ていったんだっけ・・・。」
探るような目をしながら、京子を上目使いにみて、陽子はそう口にした。迂闊なことを言ってはならないと、京子の中で、何かがそう語りかけている。
「ええっと、そう・・・。そうだったわね。」
「私、その時、トイレを借りたいって言ってた?」
てっきり自分の事を訊かれると思っていた京子は、意外な質問に戸惑った。
「確か、そうだったわね。」
(やっぱり、そうだったのか・・・)
男の言っていたことは、満更嘘ではなかったようだ。
「で、私、出てったんだったっけ。」
「えっ、憶えてないの。あの男の人が、じゃこちらへって・・・。」
「ち、ちょっと待って。こちらへって言ったの?確か・・・?」
「えっ、そう・・・じゃなかったかな・・・。ごめんなさい。何て言ったかははっきりとは憶えてないわ。そんな気がした・・・だけかも。」
陽子は疑わしそうに眉をひそめる。京子は、陽子自身が聞いた言葉を疑うような目で自分に確かめているのを変だと思う余裕がなかった。いつ、自分の事を訊かれるかが心配で、何と言い逃れしようかそればかり考えていたのだ。
「私が出てって、あなたはどうしてたの?」
ついにその質問が来てしまったと京子はうろたえる。
「わ、わたし・・・。ええっと・・・。陽子さんが何時までも戻って来ないんで、仕方なく、私一人であの人にいつものパンフレットどおりの説明をして帰ったわ。そう、そうだった・・・。」
(余計なことは言ってはならない)そう、自分に言い聞かせるように、やっとの事でその言葉を口にした京子だった。
(何か変だ・・・。)
そう思う陽子だったが、男の言っていた事と整合しているので、それ以上の突っ込みの仕様がなかった。
「今度、いつ一緒に個別訪問したくれる?」
「ねえ、陽子さん。私・・・。もう、あの個別訪問は辞めようと思うの。あの団体ももう私、脱退しようと考えているのよ。」
「な、何ですって・・・。誰から何を含まれたって言うの。そんな事、出来る訳ないでしょ。そんな事が許されると思ってるの。あなた、誰に物申してるつもりっ。」
思わず語気を荒げた陽子だったが、拙い事になったと内心は焦っていた。京子は個別訪問の際に相手をひっかける大事なエサなのだ。ここで手放してしまう訳にはゆかなかった。
「ちょっと、私、神父さまに相談してくるわ。大変な事になるかもよ。そんな事、言ってると。」
陽子は脅しをかけて揺さぶる作戦に出ることにする。
「わ、私もよく考えるから・・・。ね、今日のところはこれで帰って。」
あとはうつむいてしまって何を言っても応じない京子なので、また来るからと告げて帰るしかない陽子なのだった。
陽子に訊かれて、京子のほうも少しずつ思い出し始めていた。自分一人になって受けたあまりの辱めの仕打ちに、あの日起こったことは一切思い出したくないと自分の記憶を遠ざけていた京子だった。しかし、そう言えば、陽子がトイレを貸して欲しいと言って出て行った後、男が戻ってきた時に、陽子は別の家を訪ねる為に出ていったのだと確か男がそう言っていたのを、今やっと思い出したのだった。最初は変だと思っていたのだが、男に手錠を掛けられた辺りから陽子の事どころではなくなっていたのだ。
(手錠を掛けたのはほんの悪戯心からだと言っていた。鍵がたまたま折れてしまったのだとも言っていた。しかし、今考えると最初から仕組まれていたとしか思えない。)
京子は自分が受けた仕打ちについて、陽子に相談するなどとは考えられないことだと思った。決して誰にも知られてはならないのだと固く心に決めたのだった。しかし、陽子のほうから、陽子自身に何が起こったのかを尋ねられて、少し冷静になって思い出し始めていた。
(そうだ。あの時・・・。やっとのことで小水にまみれた手錠の鍵を手に入れて、それを外した時には男の姿はなかった。手錠と鍵は置いている訳にもゆかず、水道で洗ってハンカチに包んだのだっけ。床に落ちていた紙おむつは最早それを身に着ける訳にもゆかず、汚物入れに突っ込んで、下着無しのまま公衆便所を飛び出たのだった・・・)
その時に、公園の隅のベンチに誰かが寝そべっているのが見えたのだ。着ている服ですぐにそれが陽子だと気づいた。穿いていたスカートが肌蹴て、下着が丸見えになっているのが判った。しかし陽子に気づかれてはならないと思って、すぐに陽子の居る方から反対側へ逃げ帰ったのだった。
(あの時、あんな場所で陽子はいったい何をしていたのだろう・・・?)
それは、その時になって初めて湧いてきた疑問だったのだ。
「あの、ここ宜しいかしら。」
陽子は後ろからそっとそのテーブルに近づいていって男に声を掛けたのだった。男は手にしていた新聞をテーブルに置くと、振向いた。
「は? どなた?」
陽子は男が恍けているのを確信した。それで益々怪しいと思ったのだ。
「少しだけお時間くださる?」
そう口にした時にはすでに男の真正面の椅子を引いて座り込んでいた。
「ああ、この間の宗教勧誘のオバサンだね。あの話だったらもういいから。」
「そうじゃないのよ。ちょっとお聞きしたいことがあってね。」
陽子はこの男から何とか話を訊きだそうと、このところ男の家の前をずっと張っていたのだ。そしてこの日とうとう、男が出掛けるのを見つけ後を付けたのだった。そしてテラスになっている喫茶店の隅に席を取ったのを見届けてゆっくり近づいてきたのだった。
「この間、お宅を訪問した時の事。ちょっと確認したくて。」
「さあ、何の事かな。」
「あの時、私と一緒に訪問した子、長谷川京子って言うんだけど彼女に訊いてみたら違う事を言うのよ。」
男が一瞬眉間に皺を寄せたのを、陽子は見逃さなかった。
「私、吃驚しちゃった。あの子の話、訊いて。」
男は少し思案するような素振りをみせる。しかし、男のほうからは何も言い出してこない。
「私が邪魔だったんでしょ。それであんな事・・・。」
「あんな事って?」
「だから貴方がした事よ。誤魔化しても駄目よ。」
男は陽子の眼の奥を覗きこむようにじっくり陽子の表情を探る。
「京子って言ったっけ。あの時のもう一人の子。そいつから聞いたっていったけど、嘘だな。そいつは。」
「な、何でよっ。」
「お前の眼を見てりゃ、わかるさ。」
(チッ)陽子は思わず心の中で舌打ちする。鎌をかければ何かボロを出すと思ったのだ。しかし思ったより相手はしたたかだった。
「それより、どうしてる? その京子って子は。」
「私には用は無いけど、あの子にはあるって訳?」
「ふん。そうじゃないけど、あの子にはちょっと渡したいものがあるんでね。」
「何よ、渡したい物って?」
「君には関係ないよ。」
「私が持ってってあげるから私に預けなさいよ。」
「そうはいかないさ。ああ、ただ彼女が取りに来たくないって言ったら、アンタに預けるって伝えてくれよ。多分、彼女は取りに来るって言う筈だけど。」
そう言うと、もう話はないとばかりにテーブルに置いていた新聞を取り上げ、陽子の目の前に広げて読み始める。とりつくしまも無くなって退散するしかない陽子だった。
「ねえ、そんな事言ってるのよ。アンタ、何か大事な物でも忘れてきたんじゃない?」
「い、いえ・・・。そんな事、無い筈だわ。」
「じゃ、何かしらね。いいわ、アンタが取りに行かないって言ったら、私に預けるって言ってたから。」
「えっ、何ですって。駄目よ、そんな事。私が行きますっ。」
思いもかけない陽子の言葉に京子は人が変わったようになった。陽子は男が言っていた(自分で取りに来ないのなら、アンタに預けるって伝えろ)と言っていた呪文のような言葉が将に効果を見せたのを、まざまざと見せつけられた気分だった。
「じゃあ、私が一緒に行ってあげるわ。」
「いや、駄目っ。私、一人で行くっ。ついて来ないでっ。」
あまりの慌てように、陽子はますます怪しいものを感じずにはいられない。
「ふうん。そんなに言うんならアンタ一人で行けばいいわ。でも、大丈夫なの?」
「だ、大丈夫よ。別に何でもないんだから。私にも心当たりは無いわけじゃないの。」
「あら、そういう事? じゃ、別にいいんだけど。」
「ちょっとごめん。おトイレ、行ってくる。」
そう言って席を立つ京子が、心の動揺を隠そうとトイレに逃げたのだとまでは、陽子も見破れないでいた。しかし、京子の慌てようが今すぐにもあの男の元へ出掛けようとしていることは観て取れたのだった。
(何かしなくちゃ・・・。)
無い知恵を思い切り絞る陽子だった。
(そうだ。何時も持ち歩いているICレコーダーがあったわ。)
陽子は自分のバッグから、訪問の際に何か言い争いになった時の用心にICレコーダーを持ち歩いているのだった。しかし、実際のところそんなものが必要になるケースは滅多になく、最近は持ち歩いているだけで、スイッチを入れることも無くなっていたのだった。
ICレコーダーの録音スイッチを入れると京子が席に残していったバッグの中にそれを滑り込ませる。
「私、行かなきゃならない用事を思い出しちゃったの。今日はこれでお別れするわ。」
トイレから戻ってくるや否や、陽子はそう京子に告げて立上った。一人になれば京子は必ずやすぐにあの男の元へ向かうだろうと見当をつけたのだ。陽子は気づかれないように後を付けるつもりでいたのだ。
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