090冴子ビザール

妄想小説

牝豚狩り



第一章 女捜査官の危機

  その1


 その日、冴子は非番だった。休みの日であっても欠かすことの出来ない筋力トレーニングは、午前中にいつものジムに行って済ませてある。午後はお洒落をして久々に街に出て買物でもしようかと思っていた。
 冴子は警視庁の中でもあまりその存在を知られていない特殊捜査官である。警視庁の人材から精鋭ばかりを集め、日々訓練を重ねているエリート集団の一人なのだ。一般の警察業務に駆り出されることはない代わりに、危険を伴う、極秘裏に進めなければならないような、要人の警護やハイジャックの人質奪還などといった特命業務の時だけ密かに呼び集められ、任務を遂行するのだ。従って、武道も柔道、空手、合気道など一通りは人並み以上に得意としている。警視庁の一般職員では、男でも冴子に敵う腕の者はそうは居ない。
 しかし、今日は非番だ。一応、ノルマの筋トレさえこなしておけば、あとは何をしても自由なのだ。
 (たまには女らしくしてみようかしら。)
 業務上、パンツルックが多い。身軽に行動出来るようにする為だ。訓練中は戦闘服ということもある。しかし、極秘に行動する際には、人ごみに紛れるような一般人と変わらない服装を求められることもある。
 冴子は武道の達人、拳銃の名人ではあっても、女性らしい服も似合った。普段鍛えているせいだけでもなく、冴子は元々手脚も長くスタイルもいい。顔だちもなかなかの美人なので、却って人目を惹いてしまうほどだ。
 街へ出るのに、ちょっと大胆かなと思うようなタイトなミニにすることにした。男の視線を集めるのは、冴子だって悪い気はしない。上にきりっとしたスーツを纏うと、IT企業の社長秘書のようにも見えた。それを更に強調するかのような、度の入っていない細めの眼鏡を掛ける。素の顔では美貌が目立ち過ぎるためだ。
 それでも地下鉄などでの後ろ姿はかなり魅力的だ。痴漢が近づいても仕方ないと言えた。生憎、その日は中途半端に混んでいる。ラッシュ時の満員電車ほどではないが、車両が揺れて、肩が触れてしまうぐらいは仕方が無い程度に混んでいた。
 冴子は、タイトミニに包まれた、締まったヒップに、先ほどから男の手の甲が触れては離れを繰り返しているのに気づいていた。明らかに様子を窺っている風だ。冴子が無視していると、男の手は次第に図々しさを増してくるのが分る。痴漢によっては慎重なのもいる。女が、触られて声を上げられないタイプかどうか、確かめてから、本格的に触ってくるのだ。今回のがどうもそういうタイプらしかった。
 男の手の甲がくるりとひっくり返ると、あからさまに掌全体で冴子の尻を撫で回してきた。冴子がそのまま知らん振りをしていると、男は指先を器用に曲げて、スカートの裾を手繰り始めた。冴子はタイミングを計っていた。
 男の指が、スカートを捲り上げて、ストッキングに包まれた尻の肉に触れたその一瞬を捉えた。冴子の手がさっと伸びると、男の手首を捻るように捕まえて、高々と肩の上へ突き上げた。
 「いい加減にしなさいよ。女性が何もしないと思って、みくびるんじゃないわよ。」
 冴子の突然の激しい剣幕に、男の顔が真っ赤になった。中年のサラリーマン風の男だった。
 「な、何しやがんだ。俺が、何をしたっていうんだ。は、放せ。」
 今度は男が逆切れしたようだった。うっかり罪を認めてしまうと、まずいとも思ったようだった。周りは何が起こったかと少し身を引いて冴子と男のほうを注目しだした。
 サラリーマン風の中年男は、このままではまずいと思ったようだ。掴まれたのと反対の腕を拳にして冴子の顔面めがけて殴りかかってきた。男の拳が空を切るのと、捩じ上げられた腕ごと押されて前倒しに男がつんのめるのがほぼ同時だった。男は無様に電車の床に這いつくばった。
 「畜生、このアマ・・・。」
 男は逆上して、今度は肩から体当たりを食わせようと、猛烈にダッシュしてきた。その勢いを利用して冴子はさっと身を翻すと、足を払って肩から投げ下ろした。男の身体が宙を舞ったかと思われるような勢いで、傍のドアに叩きつけられた。周りの乗客がさっと身を引く。
 男は敵わないと観念したらしく、もう冴子のほうに顔を上げることもなく、(畜生、畜生・・・)と、ぼつぼつ呻きながら蹲ったままだ。
 周りの客はあまりの冴子の鮮やかな身のこなしに声も出ないで感嘆していた。冴子のほうは、スーツの埃を払うかのように、手でさっと身繕いを直すと、何事もなかったかのように、男に背を向けた。
 (鉄道警察に引き渡すのは、勘弁してやろう。つい、力が入り過ぎてしまって、大人げないほどのダメージを与えてしまった。これで充分懲りただろう。)冴子もすっとしたし、非番とは言え、鉄道警察に事情を説明することで、自分の身分を知られるのも嫌だと思ったのだ。
 そんな鮮やかな身のこなしを遠くからじっと眺めている視線にまでは冴子は気づかなかった。淡い色のサングラスを付けているので、気づいたとしてもその鋭い視線までは見とれない。


 地下鉄が駅に着き、冴子は外の空気を吸いたくなって降りることにした。投げられた男は冴子が出ていくのを見て、車両の中に残ることにしたようだった。冴子は早足でホームの階段を駆け上がっていく。が、その背後に何気ない風を装って、サングラスの男が静かに追ってくるのには、さすがの冴子も気づいていなかった。
 休みの日のウィンドーショッピングだからといって、尾行の気配に気づかないようなことはない筈だった。それだけ尾行するほうもプロだったと言わざるを得ない。この時冴子はまだその存在には全く気づいていないのだった。
 冴子が「きゃあっ。」という金切り声を耳にしたのは、古いビルとビルの間にある狭い路地を通り抜けようとしている時だった。声はその路地の奥から聞こえてきたような気がした。何か事件の臭いがした。
 冴子は一般の警察官ではないので、関わりあう責務はなかった。まして今日は非番である。しかし、そうは言っても、捨てて置けないのが冴子の性分なのだ。
 音を立てないように、そっと路地を奥へ進んでゆく。その先にどうもビルに囲まれた中庭のようなところがあるようだった。ビルの角に身を隠しながらそっと中庭のほうを窺う。
 若い男の子が、連れらしい女の子を庇うように仁王たちになっている。が、もう相当殴られているらしく、立っているのがやっとで、今にも倒れこみそうだった。その反対側にいかにも悪そうな男が三人、囲むように立っていて、そのうちの一人が男の子にナイフを向けている。まわりのビルは廃墟のようで、ひと気は無さそうだし、表の通りまではよっぽど大声を上げなければ聞こえそうになかった。もっとも悲鳴が聞こえたぐらいで、薄暗い路地を奥へ入ってくるような勇気のある人間は現代社会ではそうは居ない。  
 (三人か。今日はよくよくこんなことばかり起こる日ね。)
 冴子は覚悟を決めた。ナイフを持っては要るが、冴子の相手になるほどの者ではないと判断を下した。
 「ちょっと貴方たち、何してるの。」
 きつい調子で呼びかけられた男達が一斉に冴子のほうを振り返る。冴子のほうは、男達を前にして腕を組んで睨みつけている。
 「なんだ、てめえは・・・。邪魔すんじゃねえぞ。怪我してえのか。」
 しかし、冴子はひるむ様子を全く見せない。男達は、今度は冴子にナイフを向けてきた。残りの二人がさっと広がって冴子を囲むように後ろへ周りこむ。冴子は身構えた。
 (このミニの格好じゃ、パンツ、見られちゃうかもしれないわね。でも、仕方ないか。)ナイフを構えた男たち三人に立ち向うには、あまりお上品にしてはいられないと覚悟を決めた。
 ナイフを持った男が突然切り込んできた。そのナイフは身体を反らした冴子の前で空を切る。その伸ばしたナイフの手に冴子の足がしたたかに蹴り上げる。あまりの痛さに男はナイフを取り落とし、ナイフは勢いで中庭の隅に飛んでいく。
 「てめえ、畜生。やりやがったな。」
 ナイフを持っていた男が今度は殴りかかってくる。その一発、一発を適確に交わしながら、逆に男の下腹部に蹴りを決めていく。男が下腹部を抱え込んでしゃがみこむのを見て、他の二人は躊躇している。リーダー格らしいナイフの男が残りの二人に向かって、しゃがみこんだまま声をあげた。
 「馬鹿野郎、何してんだ。一斉に飛び掛れ。」
 その声にはっと我に返った二人は顎で合図して一斉に冴子のほうに飛び掛ってきた。冴子は男の手が届く前にさっと身を翻して男達の手を交わす。ミニの裾が割れて、下着が一瞬ちらっと覗く。二人の息が合わないうちに決着をつける必要があった。さっと立ち上がると、一方の男の背後から飛び掛り、腕をねじ上げてその腹めがけて身体を一回転させ、回し蹴りを腹部に食らわせる。男が倒れるのと同時にもう一人の腕を掴んで投げ飛ばした。男の身体が一回転して頭からコンクリートの床に倒れこむ。あっと言う間の離れ業だった。
 倒れこむ三人を前にして、冴子が捲れ上がった裾を元に戻しながら(これくらいで勘弁してやるか)とスーツについた埃を払おうとしている時だった。再び起こった「きゃあっ。」という黄色い声に振り返ると、いつの間にか、さっきは居なかった男が女の子を捕えていた。首をうしろから締め上げるように腕を回し、女の子の顔面にナイフを突き立てている。女の子は恐怖に今にも泣き出しそうだが、声もあげられないでいる。もう一人の連れの男の子は、しゃがみこんで肩で息をしていた。
 「その子を放しなさい。どういうつもり・・・。」
 冴子は男がしている薄い色のサングラスの、奥の目つきを読もうとするが、はっきり見てとれない。只者ではない雰囲気が感じられる。女の子を人質に取られているのはまずかった。このような立ち回りをする際には、いつも全ての人間の動きに瞬間、瞬間目を見張っている。そうでなければ危険だからだ。普段からそう訓練されている。
 しかし、その時の冴子には計算にない男だった。突然現われた三人の悪童以外の男は全くの計算外だったのだ。
 冴子は身構えた。が、迂闊な動きは出来ない。人質に取られた女の子の顔面にはナイフがあり、どう素早く動いても冴子の手は届かない。
 「両手を頭の後ろに組め。」
 冴子には今は従わざるを得なかった。慎重にゆっくり手を挙げると後頭部に手を回した。
 「今度はそのまま床に膝をつくんだ。足は少し広げろ。もっとだ。」
 コンクリートの床の痛さを膝小僧に感じながら、冴子は言われた通り両脚の間隔を少し広げる。
 (何か訓練された男だわ。こんな適確な命令をするなんて。)
 膝をつけてしゃがませるのは、FBIなどでも良く使う常套手段だ。咄嗟の動きが出来ないし、足蹴りを封じることにもなるのだ。
 男は女の子の首を引き倒すようにしてしゃがみこみ、手にしたナイフを一旦口に咥えていつでも取れるようにしておいてから、足元のバッグを探り出した。冴子はずっと男に飛び掛るタイミングを計算していた。今の格好からではどうしても立ち上がるのにワンクッション必要で、男がナイフを持ち替えて構えるのには間に合わない。(まだ、駄目だわ。)冴子は男が隙を見せるのを待った。
 男は探していた物を探り当てたようだった。ガチャリと音がして冴子の眼前に物が投げ込まれた。それは革と鎖で出来た代物だった。明らかに拘束具である。犬の首輪を太くしたようなものとそれに短い鎖が留められていて、その先には黒光りする手錠がつけられている。
 「その首輪を取って嵌めるんだ。鎖は背中に垂らせ。」
 男の命令は手際よかった。男が口からナイフを手に戻し再び女の子の顔に突き当てたのを観て、冴子は従わざるを得なかった。手錠と鎖を背中に垂らしながら首の前でベルトを嵌める。背中で手錠と鎖がジャラジャラ音を立てる。
 冴子が首輪を嵌めている間に、男はもう一本の鎖の付いた拘束具を取り出していた。50cmほどの鎖の両側に手錠と同じ形をした枷がついている。一目観て足枷と分る。それを嵌めてしまえば、何とか歩くことは出来ても、走ったり、足技を使ったりすることも封じられてしまう。
 「それを、足首に嵌めろ。」
 冴子は男から視線を離さないようにしながら投げられた足枷に手を伸ばす。ガチャリという音がすると、ストッキングの上から拘束具が締め付けるのを感じる。
 両脚の自由が奪われたところで、今度は男が放ってよこしたのは布切れのようなものだった。が、それは飛行機などで仮眠を取るのに使うようなアイマスクだった。それを着けるように命じられた。既に足の自由は奪われている。その上視界を奪われることになるのだ。更には首輪につけられた手錠を最後に嵌めさせられるのは、どう考えても間違いない。
 「さて、そしたら最後に後ろ手に自分で手錠を掛けるんだ。手探りでも分るだろう。」
 冴子には男の言うなりになるしかなかった。幾ら冴子が武道で鍛え上げているからと言って、この拘束具を嵌められてしまえば、どんな抵抗も出来るはずがない。アイマスクに封じられた視界の向こうで男が、女を抱えたまま背後に廻ってくるのが気配で感じられる。手錠がしっかり掛かっているかを確認しているようだった。
 冴子の自由が完全に奪われたのを見届けてから、男は女の子を突き放したようだった。(きゃあっ)と言う声がそれを物語っていた。
 「お前たちもこの手錠を掛けろ。片手でいい。もう片側はその雨どいにつなぐんだ。そっちの倒れている坊やもだ。声を上げたら、ナイフを突き立てる。暫く黙っていたら、助かるんだ。分ったな。」
 男の声は問答無用という感じだった。女の子が小さくすすり泣くのが聞こえる。
 足音で男が冴子に近づいてきたのが感じられた。冴子は不自由な身でありながら身体をこわばらせて構える。突然、下腹部を男の革靴が襲った。強烈な蹴り上げに声を呻かせて前のめりに倒れこむ。目が見えない以上、防ぎようがない。気が遠くなりそうなのを必死で堪える。その倒れこんだ冴子の顔面に男が近づく。いきなり鼻をつままれた。息が出来なくなり苦しくなって口を開けたところへ何か布のようなものが突っ込まれる。激しい刺激臭にむせ返る。
 (クロロホルムだわ。)
 首を振って吐き出そうとするのを男の手がしっかり捉え、うえからガムテープのようなものが口全体に貼り付けられた。
 次第に遠くなってゆく意識の中で、冴子はもう逃れる術は無くなったのを感じていた。
 麻酔を嗅がされて意識を失ってしまった冴子の前でも男の動きは無駄がなかった。怯えている若い二人組みに目隠しをつけるよう命じ、バッグから大きな布袋を取り出すと、正体を喪って倒れ込んでいる冴子の身体をすっぽり包み込んだ。
 携帯でなにやら連絡を取っているのは、仲間を呼んでいるらしいと、雨どいに繋がれた男の子は感じていた。
 (さっき、大人しくしていれば助かると言っていた。どういうことだろう。最初の三人のヤクザみたいな連中は間違いなく金を巻き上げようとしていた。だが、後から現われた男は助けに入った女の人が目当てみたいだった。何をしようとしているのだろう。あんなに強そうにしていた女の人をあっと言う間に見た事もない拘束具で自由を奪っていた。まるでスパイアクション劇みたいだ。)
 そんなことを声には出さず荒い息遣いだけを立てながら考えていた。
 その男の子が聞いたのは、携帯に掛かってきた着信音と車が停まったような音だった。何かが引き摺られるような音がしたと思ったら、しいんとしてしまった。
 暫く経ってから、そっと自由なほうの手で着けさせられていたアイマスクをずらしてみると、目の前の中庭には恋人のほかは誰も居ない。ヤクザ三人組もいつの間にか逃げてしまったようだ。1mほど先に手錠の鍵らしいものが落ちていた。足を一杯に伸ばしてやっと届くぐらいの距離だった。殴られた痛みを堪えながら、男の子はその鍵に足先を伸ばしていった。

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