110巡回良子

妄想小説

牝豚狩り



第二章 半年前

  その1


 神奈川県警巡査の良子は、同僚の山登りの誘いを断っていた。同僚には山登りは好きではなく、むしろ海のほうが自分の性に合うのだと説明していた。それに婚約者の沢木と、数少ないデートが出来るチャンスの日だったこともある。勤務日がローテーションで決まり、一定の休日が定まらない良子と、働き盛りの商社マンで、休日出勤をしなくてはならないことの多い沢木との間には、一緒に休みが取れる日というのがそもそも少なかった。

 晩生だった良子に、世話好きの叔母が何度も持ってきたお見合いの末に、漸く結婚してもいいと思える相手に出逢えたのだった。沢木のほうも、良子の特殊な職業のことは気に入ってはいなかったが、自分そのものは好いてくれているようであった。良子の方でも自分の職業に固執はしていなかった。街の人の為になるということへの自覚と満足感はあったが、せいぜいが違法駐車の摘発ぐらいのパトロールしか任されない自分に出来ることの限界は感じていた。相手が望めば結婚に際して寿退署をすることは、特に異存はなかった。今のところ、沢木から結婚した際には仕事を辞めてほしいとはっきり言われた訳ではなかった。むしろ、そんな具体的なところまで話が出来ていないのが実情といえば言えた。しかしそれでも、うまく合えば結婚することが前提である見合いという場を経て、お互い憎からず思っていることは充分に感じられる付き合いをしてきてはいる。ただ、その回数がお互いの仕事の為に、いささか少ないというだけのこと。良子はそういう風に解釈していた。

 ただ、沢木と過ごせる逃し難いチャンスということで、同僚から誘われた山登りを断るのは、いささか忸怩たるものがあるのを自分自身にも隠せなかった。良子にはまだ人里離れた山奥というイメージだけで、脅迫観念を拭いきれなかった。職業柄、P・T・S・D(外傷後ストレス性障害)というものもよく知っていた。しかしそれを自分自身に当て嵌めきれるほど、自分に冷静にはなれないのだった。

 結婚して、生活を変え、過去の嫌な思いを払拭してしまうこと。それが今年の年頭に、初詣のお参りを沢木とした時に、良子が密かに心のなかで下した決意であった。

 (あの日、自分がもう少し、注意深かったら・・・。)
 何度も反芻し、反省してきた後悔がどうしてもまた浮かび上がってきてしまう。

 あの日も、いつものように、同僚の美咲と、違法駐車を取り締まるパトロールをしていたのだった。美咲は、前の晩の青年実業家たちとの合コンで盛り上がって遅くなり、飲みすぎて朝から調子が悪いようだった。フランス駐在の話から、話題になったいきがかりで追加で注文した生牡蠣に当たったようだとも話していた。
 パトロールの途中で、どうしても我慢が出来ないと、公園の脇にミニパトを留め、公衆便所に駆け込む美咲を見送ったばかりであった。

 独り、取り残された良子は、ミニパトの中でじっと美咲の帰りを待っていたのだ。
 (その時だった。あの車がやってきたのは。)
 良子たちがミニパトを停めて待機していた場所から50mほど前方だった。横断歩道があって、そのど真ん中にその車が停車したのだ。中からサングラスをした男が出てきて、車をそこに停めたまま、公園の中へ入っていってしまった。そこは公園の出入り口になっていて、そこへぴたっと付けて駐車しているために出入りがしにくくなってしまっていた。そこへ、杖をついたお婆さんが公園の中から出てこようとしていた。出入り口の両側は刈り込まれたつつじの並木になっていて、車との間がやっと通り抜けられるかどうかぐらいの間隔しか無かった。そこを無理やり横歩きになって杖をつきながら出ようとしたので、そのお婆さんは転んでしまったのだ。

 慌てて、良子は走り寄った。老婆に手を貸して抱き起こし、立たせたのだ。老婆は(もう大丈夫)と言って、横断歩道を渡って行ってしまった。心配で後を付いていってあげたかったが、ミニパトを警察官不在のまま置いておくことになってしまうので、断念したのだ。
 (こんな時に、もう・・・。美咲ったら、だいたい夜遊びが過ぎるのよ。)
 憤慨は、違法駐車しているその車の主にも向けられた。早速、ポケットからチョークを取り出し、タイヤとアスファルトの地面に線を引いて、時刻を記した。良子がミニパトに戻って規定の時間が経過するのを待とうとした時だった。車の持ち主が現れたのだった。
 「おい、ちょっと待ちな。お姐ちゃん。」
 (お姐ちゃん)という言い方がカチンと来た。
 怒りにきっとした目で振り向いた良子に、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべた男の顔が目に入った。
 「違法駐車ですよ。切符を切りますから。」
 怒って、そう告げた。
 「お姐ちゃん、独りで取り締まりかい。」
 (痛いところを突かれた。)と咄嗟に思った。違法駐車の取り締まりであろうと、警察の活動は基本的に全て、単独行動をしないで、仲間と共同でしなければならないと決められているのだ。しかも、今もミニパトは空車のまま、放ってある。
 「独りで取り締まりなんて、禁止されているんじゃないか。ええっ。」
 男の馬鹿にしたような口ぶりには益々腹が立った。
 「もう一人だって、居ます。今ちょっと、・・・」
 そこまで言って(しまった)と思った。まさか同僚が腹を壊して、公園の公衆便所に駆け込んでいるなどとは、幾ら知らない人間でもいう訳にはいかない。それにあの様子では、当分は戻って来れないかもしれない。
 「取り締まりは一人でも出来るんです。今は、・・・ちょっと、手分けしてやっているんです。」
 語気を強めていったが、もともと嘘がうまいほうではなかった。
 「ふうん・・・。」
 男の目がサングラスの下できらりと光ったのには気づいていなかった。
 「だいたい、今来たばかりだ。ずっと停めてあった訳じゃない。」
 男は図々しくもそう言い放った。
 「そんなことはありません。ここにほら、ちゃんと書いてあるでしょ。」
 良子はさっき書いたばかりのチョークの後を指差して身を屈めた。視線が男からそれた。それが大きな隙になっていた。

 男の膝が屈んでいる良子の下腹を強烈に蹴り上げた。それは物の見事に決まってしまった。それから後のことは、かすんでいく意識の中で何もわからなくなってしまったのだ。

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