若妻のたしなみ
三
(いけない。誰か来たのかしら。)
慌てて立ち上がろうとして左手の中にしっかり握っていた筈の手錠の鍵をチャリンと床に落としてしまう。
(そうだ。手錠を嵌めていたんだ。すぐに外さなくちゃ・・・。)
理恵は二階の寝室に戻るより、洗面所の鏡を使ったほうが早いと判断する。
ピン・ポーン。
再度、玄関でドアチャイムが鳴る。理恵は焦った。小走りに駆けこんだ洗面所とバス、トイレが一体になったバスルームで自分が後ろ手に掛けた手錠を鏡に翳して鍵穴を捜す。
ピン・ポーン。
(拙いわ。急がなくちゃ・・・。)
しかし、急げば急ぐほど焦ってしまって、鍵が鍵穴にうまく入らない。
「あっ・・・。」
無理に鍵穴に鍵を入れようとして手が滑って、鍵が洗面台の角に当たって落ちた。
チャポーン。
嫌な音がした。便座があがっていた。夫が使ってあげたままだったのだろう。洗面台の角で跳ねた鍵がものの見事に便器の中に跳び込んでしまっていたのだ。
(どうしよう・・・。)
ピン・ポーン。
(そうだ、玄関に鍵を掛け忘れている。とにかく鍵を掛けておかなくちゃ。)
手錠を外すのを諦めて玄関に走り込むと後ろ手で玄関のドアノブを掴もうとしたその時にドアノブがガチャッという音を立てた。慌てて手錠の手を後ろに隠す。
「あれっ、開いていたのかあ。あのお、誰か居ますか。」
一歩後ずさりした理恵の前に鍵が掛かっていなかった玄関扉を開いた男が現れた。
「あ、居たんですか。ここ、鍵、開いてましたよ。」
「あ、あの・・・。何ですか。勝手に入って来られては困ります。」
男はしかし素っ頓狂な顔をして理恵の顔をまじまじと見ている。そして次の瞬間、男がまじまじと見ているのは自分の顔ではなく、その下の首輪であることに気づいてしまった。
(そうだ。首輪も嵌めたままだった・・・。どうしよう。)
「あの・・・。それ、何ですか。首に巻いているの?」
「あ、何でもないわ。あの、今主人が居ないんで困ります。すぐ帰ってください。」
言ってしまってから、拙い事を自分から口にしてしまったことにすぐ気づいた。(主人がすぐ帰ってくるから)とか言わなければならなかったのだ。自分から今、自分一人しかいないことをばらしてしまったのだ。
「何をそんなに慌てているんですか? あれっ、何か後ろに隠し持っているんですね。」
男は理恵が両腕を背中に回したままで居ることを不審に感じたようだった。
「な、何でもないわ。早く帰って頂戴。」
理恵はどんなに変に思われても手錠で繋がれた後ろ手を男に見られる訳にはゆかなかった。
「あれっ? それって首輪ですよね。しかも犬の首輪みたいだ。」
「いやっ、見ないで。お願い。もう帰ってっ。」
理恵には男には背を向けないようにして一歩ずつ後ろに下がるしかなかった。その事が余計に男を不審に思わせたようだった。
「何か困ってるんじゃないんですか? 助けてあげますよ。」
そう言って男は強引に靴を脱いで上がってくる。
「駄目っ、来ないで。ああ・・・。」
理恵が懇願した時には既に男は理恵の二の腕を捉えていた。
「ははあ、こんな物で繋がれてたんですね。それで両手が見せられなかったんだ。なあるほど。」
男は手錠を掛けられた理恵の背中の手首をしげしげとながめている。二の腕を掴んだ片手はしっかりと握られたままだった。理恵にはもう逃げることも出来なかった。
「お願いっ。黙って出て行って。」
「出てくって。手錠を嵌められた女の人を一人残してって訳にはいかんでしょう。誰にこんな事、されたんです。この家にはアンタ一人しか居ないみたいだけど・・・。」
理恵はもう項垂れて黙り込むしかなかった。
「まさか、これ・・・。自分で嵌めたのか? SMプレイごっこを自分で愉しんでたわけだ。するってえと、鍵は何処かにあるんだな。ん?そうだろ。」
「あ、あの・・・。違うんです。ちょっと試してみただけなんです。」
「鍵は何処なんだい。」
「あの・・・。外そうとしてたんです。そしたら落しちゃって・・・。」
「何処に落としたっていうんだい。」
「そのお・・・。洗面台の前で鏡を見ながら外そうとしてたら・・・。慌ててて、つい取り落としたら、跳ねて便器の中に・・・。」
「えっ、便器? あそこがバスルームだな。どれっ。」
男はそう言うと勝手にバスルームに入っていく。もうこうなったら男に手錠の鍵を外して貰うしかないと考え始めた理恵だった。
次へ 先頭へ