妄想小説
キャバ嬢 サチ
十六
幸江やマリコが勤める会社は、業績が悪く、数年前に大会社に吸収合併されたばかりだったが、その後もその分野は業績悪化が続き、一大リストラが敢行されることになった。その第一弾の施策として挙がったのが、早期退職制度と銘打って希望退職を募るというものだった。展開文書では一応希望退職となっていたが、管理職には秘密裏にノルマが課せられ、必達目標とされていた。目を付けた者に個人面談を行い、何が何でも本人の口から退職しますという一言をいわせるという指令が部長クラスの管理職に課せられたのだった。幸江が上司で皆から拓ちゃんと呼ばれている部長の橋本に呼ばれたのはそんな時だった。ちょっと前まで橋本は隣の部の部長だったのだが、幸江の部長だった亀成が子会社に転出になって、幸江たちの部は橋本の部に吸収されていたのだ。
内心幸江は(まずい)と思った。陰で自分の副業のことを噂しているものが居るのは人伝に知ってはいた。噂というのはとかく伝わるものだ。幸江は橋本の耳にまで届いているのではと心配していたのだ。
幸江が呼ばれたのは特別に事務本館の奥に設けられている個室だった。元は少人数で内密の打合せなどをやる際によく使われていた、窓のない応接セットだけの小さな部屋だ。賓客も来るので応接セットはふかふかの上品なものが据えられていた。そこで部長の橋本と二人だけで面談を行うのだ。
応接セットのソファは事務用机のスツールと違って低めに作られている。いつも制服の裾を詰めてスカートの丈をかなり短くしている幸江が深く腰掛けると、膝が上がって裾の奥が覗きそうになってしまう。それをさりげなく腿の上に両手を組んで隠していた。その手の奥へと時々橋本の視線が泳ぐのが、男の扱いには慣れている幸江は読み取っていた。
「で、今の説明で、制度のあらましと、貰えることになる退職金の額はだいたい頭に入ったかな、サッちゃん。」
部長は必要以上にいつもより馴れ馴れしくあだ名で呼びかけていた。
(ふん。割り増しって言ったって、私達の年じゃあ所詮、はした金じゃないの。)
制度では早期退職に申し込む者には割増金が付くことになっている。それでも元々の退職金が40歳台の後半にならないと大きくは積みあがってこないのだ。幸江の年齢では半年分の年収程度にしかならない。それまでに新しい就職先が見つからなければ、所得なしになってしまう。
「会社に残るってことは出来ないんですか。」
幸江は部長の視線を食い入るように見つめながら、膝の上の手をうなじの後ろに回し、脚を大きく組み替えた。幸江は橋本が喉仏をゴクンと鳴らして生唾を呑みこむのをしかと見て取った。
「サッちゃん、あのね。サッちゃんの場合、今までいた部署全体が全部無くなっちゃう訳なんだ。わかるよね、どういうことか。」
橋本は巧妙に(辞めてくれ)という言い方を避けながら、辞めるしか道はないのだと悟らせようとする。
「だけど、残る人も居る訳でしょ・・・。」
幸江は組んだ脚を元に戻す。今度は膝の上には手を置かず、ポニイテールに巻いた髪をいじる真似をする。橋本は視線を一瞬だけ膝頭の間に覗く裾の奥の方に、矢のように走らせてから顔を伏せて目線をそらした。
「私、この会社、辞める訳にはゆかないんです。」
幸江は自分の席を立って、橋本の隣ににじり寄る。すぐ横に無理やり腰掛けて橋本の股座に押し付けるようにして膝を割りいれる。そして橋本の手を両手で包み込むように捉えると、自分の下腹部に引き寄せる。そして上目遣いに橋本の目を見つめる。
「私、別れた夫のところに居る子供の養育費を支払わなければならないんです。お金が要るんです。だから、何とか・・・。」
幸江のその様子は、キャバ嬢の必殺技だった。もう成り振り構っては居られなかった。店でも禁じられている方法で部長の橋本を落とそうとする。
しかし、橋本は幸江が自分の手を下腹部に引き寄せている手をさっと振り払った。そして、じっくりと自分自身に噛み含めるように口を開いた。
「実は、サッちゃん・・・・。僕自身も今の会社には居られないんだ。今度、秋田の子会社に移ることになっている。だから、もう僕の力でもどうしようも出来ないんだ。実際のところ、君も一緒に秋田の会社に移れないかと、画策はしてみたんだが・・・・。」
(何ですって、秋田・・・。じょ、冗談じゃないわ。)
幸江はその会社には行ったことはないが、時折出張で出掛ける男性社員から様子は訊いたことがあった。かなり山の奥のほうで、冬場は積雪が絶えないのだそうだ。近くに店は殆どなく、副業のやりようもない界隈なのだ。
幸江は上司からリストラされるのだとすると、万事休すなのだと直感した。幸江は短いスカートの裾を延ばしながら、立ち上がった。
「もう少し、考えさせて頂きます。」
「ごめんね、サッちゃん・・・。」
幸江は背後で橋本がそう言うのを、聞えない振りをして立ち去ることにした。謝るということは、他に道がないことを意味していた。幸江が何を考えたところで、事態は変らないのだと、言われたようなものだった。
「ま、ま、ま、ま、松浪さん。ぼ、ぼ、ぼ、僕は・・・、僕は辞めたほうが、いいんでしょうか、この会社・・・。」
「何だ、正雄。あの早期退職制度のことか。お前、辞めろって言われたのか。」
突然相談があるといって、松浪のところへやってきた正雄に、訝しげに尋ねる松浪だった。部長待遇の松浪にも早期退職制度のことは展開されていたが、人数規模の小さい間接部門なので、削減枠は提示されていない。正雄の居る特許課も同じ様な状況の筈なので、ノルマは無い筈だと松浪は推察していた。
「い、いや、いや。そ、そ、そ、そうでは、な、な、無いんですが。た、た、唯、ちょっと、今の俺って、その、何ていうか・・・。あんまり、会社の役に立ってないんじゃないかと、その、思ってて・・・。」
松浪はまったく何て奴だと呆れながらも、元の部下を諭すように叱った。
「いいか、正雄。馬鹿なこと、言ってんじゃないぞ。こんな不況の中、自分から辞める奴があるか。会社にはなあ、辞めさせるべき奴はちゃんと居るんだ。こういう時は出来る限り会社にしがみつくもんなんだ。」
松浪は「辞めさせるべき奴」という言葉を使いながら、頭には北条幸江のことを思い浮かべていた。部長間の噂話で、幸江がリストラの候補にあがっていることは聞いていた。松浪自身は、幸江が辞めさせられることは好んではいなかった。折角掴んだ弱みをみすみす手放してしまうことになるからだ。その弱みを使って散々幸江を慰み者にしてきたのだ。しかし、そうは言っても他人の部署の人材だ。松浪にはどうこうする権限はない。下手に庇うと、会社内に副業の噂だって広まっているのだから、どんなとばっちりを受けるか判ったものではない。法務を扱っているだけに、松浪はこういうことにかけては慎重だった。
(まあ、もう散々愉しんでそろそろ厭きてきたところではあるからな。あんまり一人の女に執着していると却って危険かもしれんからな。)などと勝手なことを考えていたのだ。
「そ、そ、そ、そうですか・・・。やっぱり、辞めちゃいけないのかなあ。」
松浪の元を辞した正雄は、会社を辞めて他の職に就くという、正雄によぎった考えを即座に松浪に否定されて、益々迷いを深めていた。正雄が実際のところ、辞めようかと考え始めたのは、事務所での自分の地位がどんどん悪くなり、居心地が日に日に悪くなっているからだった。新入社員のマリコにもあっと言う間に仕事の上で越されてしまっていた。そのマリコに何とか言い寄ろうと何度も試みたが、にべにもなく振られてしまっている。マリコにはもう自分の結婚相手になる可能性は殆どなさそうだと漸く気づき出したところだったのだ。それなら、心機一転、転職を考えてみようかと思ったのだった。
「いらっしゃいませえ~。あら、やだ。なあんだ、マサオちゃんかあ。」
思いっきりしなをナミ作って現れたサチだったが、客が正雄と知ってちょっとがっかりしたような顔をする。正雄では大した稼ぎにならないと踏んだのだ。
「な、な、な、なあんだは、な、ないんじゃ、あ、ありませんですか。」
「ま、いいから、いいから。」
サチはさりげなく超ミニの裾の前を左手で隠しながら、正雄に膝が付くようにして横に腰掛ける。そして膝の上で重ねた正雄の両手の上に右手を乗せる。
「どしたの。こんところ、ちょっとご無沙汰だったじゃない。」
サチはこの前、正雄が来たのが何時だったか思い出してみようとする。そしてすぐに突然女性の生理のことを訊いてきた数ヶ月前のことだったと思い出した。
「また、何か変な相談でもあるんじゃないの。」
正雄は、いきなり図星を当てられて、目を丸くしてどぎまぎしだした。
「ま、まず一杯いきましょうよ。いつものボトルね。」
サチは黒服を呼んで、正雄のボトルを持ってこさせる。
「へえん。アンタでも結婚なんて、考えてたんだ。」
暫く飲み続けたあと、漸く切り出した正雄の話にサチは合わせる。その夜は客も少なく暇つぶしに正雄の相手をすることにしたサチだった。
「そ、そ、そ、そりゃ、ぼ、ぼ、ボクだって、一人前に結婚したいさ。で、で、でもさ・・・。」
「でも、なあに?」
サチは窺がうように上目遣いに正雄を見る。
「な、な、なかなか、相手の気を惹くのが出来なくってさあ。」
サチは改めて、まじまじと正雄の顔を見つめる。
「ま、アンタじゃねえ。素人さんはちょっと難しいかな。」
「そ、そんなあ。・・・。あ、あ、あのさあ・・・。た、例えば、例えばだよ。女の人が何かのことで困ってるとするだろ。た、た、た、たとえば・・・たとえばさ、何か知られたくない秘密を誰かに知られちゃって困ってるとかさ。そ、そ、そんな時に、相談に乗って助けてあげたりしたら、この人は頼りになるって頼られたりしないかなあ。」
サチは突然言い出した正雄の変な話に眉を潜める。
「アンタがあ・・・。だって、まず、アンタじゃあ助けらんないでしょうが。役に立つことが出来る?」
「そ、そ、そ、そりゃあ、ボクだってさあ。その気になれば・・・。」
「まあ、アンタじゃ頼りになりそうもないけど、助けて欲しいのはアタシの方だよ、ったく・・・。」
「え、何か、知られたくない秘密、知られちゃってるの・・・。」
何気なく言った正雄の一言だったが、サチの内心を狼狽させる。会社に内緒でここでバイトをしている事実が、まさにサチが松浪に握られていて言うことをきかされている秘密なのだった。
(マサオはそれを判って言っているのだろうか・・・・。)
「馬鹿ねえ。そんな秘密ある訳ないじゃん。私が困っているのは、会社、辞めさせられちゃいそうなのよ。」
「辞めさせられちゃうって、この店を?」
「アンタ、本当に馬鹿ねえ。」
サチに呆れ顔をされて、さすがのマサオもサチが辞めさせられるのは、キャバクラの事ではなくて、自分と同じ会社の本業のことであると気づいた。しかし、その事に触れるのは松浪からきつく禁じられていて、タブーなのだ。正雄はすかさず話題を自分のことに振ることにした。
「今、考えている人との結婚が駄目なら、会社辞めちゃおうかなって考えてるんだ。今なら退職金も割増で貰えるって話もあるから。」
「本気なの、アンタ・・・。呆れた。退職金って、幾ら貰えるか知ってんの?」
「ま、一応はね。そんな凄い額じゃないけど、思ったよりはいいんだなって。会社辞めて介護でもやろうかなってさ。思って、元の上司に相談してみたんだ。知ってるよね。松浪さんて、前に一緒に来たよね。」
正雄の言葉にサチの脳裏に嫌な思い出が蘇えった。そうなのだった。あの日、突然有無を言わせずに玩具の手錠を掛けられて、二人から散々嬲られたのだ。正確には、正雄はただ松浪に言われるがままにしていただけで、パンツの中に暴発させてしまったのだったが。
「松浪・・・さんて、まだ付き合いがあんの。」
そう言えば、あの後、正雄と二人でやってくることは無かった筈だったとサチは思い返していた。
「そりゃ、そうさ。昔の上司だもの。早期退職制度で辞めたらどうだろうって相談してみたんだ。そしたら、そんなの馬鹿がすることだって。何がなにでも会社にしがみつけってさ。」
「ふうん・・・。そんな事、言ってくれる上司がいて、いいわね、アンタはさ。」
正雄の話を聞いているうちに、サチの心の中にはふつふつと怒りがこみ上げてきた。自分は上司に頼ろうにも上司そのものがリストラされてしまうのだ。(何がなんでも会社にしがみつけだって・・・。よく言うわ。そんなことが出来る位ならやってるってのに。)
サチは会社を辞めさせられるのなら、松浪には何等かの復讐をしないではいられないと思うのだった。辞めさせられてしまうのだったら、今更何も怖いものはないのだと。
その後、トイレで正雄が席を立ったので、一人残ったサチは正雄が置いていった通勤鞄に目を留めた。その時ふとサチは正雄の言葉を思い出したのだ。
(そんな凄い額じゃないけど、思ったよりはいいんだなって。)
あんなちっぽけな手切れ金みたいな額が思ったよりいいだなんて。もしかして自分よりも提示額が相当多いんじゃないかしら・・・そう思ったサチは、正雄がその退職金提示額を今鞄の中に持っているんではないかと思いついたのだ。だいたい正雄がトイレに立って戻ってくる時間は判っている。サチはそっと手を延ばすと、鞄を引き寄せ、ジッパーを開いて中を改める。書類らしきものはそれほど入っていないので、サチは所望のものをすぐに見つけた。
(えっ、結構いい額じゃないの。そうか、正雄はあれでも大卒だからなのね。私達高卒を馬鹿にしくさって。ふうん。)
書類を元に戻そうとして何かが引っ掛かってスムーズに入っていかない。何が引っ掛かってるのだろうと鞄の奥のほうに手を延ばしたサチの指にジッパーの付いた透明なビニル袋が触れた。サチがそれを引っ張りだすと中に何か入っているのが見えた。顔を近づけてみて、サチははっとなった。それは生理用のナプキンに違いなく、くるっと丸めてある端に赤黒い染みのようなものが見えるのは、使用済みのものであることを物語っていた。
(いったい何だって、こんなものを・・・アイツ・・・。)
訝しげに眉を顰めるサチにふっと思い浮かんだことがあった。前回一人で店に来た時に正雄はしきりに生理用品のことを訊きたがっていたことだ。
(アイツ、女子社員が会社でナプキンを替えることも知らなかったんだっけ。・・・・。まさか・・・。)
その時、正雄がフロアの奥の陰から現れ、サチのほうへ近づいてくるのが見えた。サチは慌てて袋ごとそれを鞄の奥へ突っ込むと、元の場所にさっと返して、素知らぬ顔をするのだった。
その夜、最後まで残っていたサチは、こっそり帳場の顧客記録を調べていた。松浪の来店記録を見返していたのだ。来店の日付と金額、支払い方法などが記されている。最初の内は個人の現金や、クレジットカードだったが、途中から会社のコーポレートカードが混じるようになり、ここ最近は殆どがコーポレートカードによる引き落としになっていた。サチには最初は頭の中にもやもやしていたあるアイデアが段々形になってゆくのを感じ始めていた。
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