美剣士、凛
その11
そんな頃、蓬栄道場の指南役の職を失った九鬼陶玄斎は、ひょん
なことから、越後屋樵兵衛という商人(あきんど)と知り合いにな
り、用心棒として雇われることになっていた。越後屋樵兵衛は、表
向きは乾物問屋を営む商人であったが、裏では幕府を倒そうとする
陰謀の片棒を担ぐ黒幕との噂があった。その屋敷の奥座敷へは、夜
な夜な陰謀派の隠密が出入りをしているのであった。
「して、その弥太郎という冴島凛の配下の者が、密かに猪豚の腸
を所望していったと言うのだな。」
隠密から裏の情報を仕入れていた越後屋は、以前より目の上のた
んこぶとも言える、真壁一刀流の冴島の噂話を密かに隠密に探らせ
ていたのだった。隠密等は、エタ、非人などと呼ばれる身分の賎し
い者等の情報にも通じているのだった。
「何かあるな、これは。おい、誰か。用心棒の陶玄斎を呼ぶんじ
ゃ。」
越後屋はよからぬ企てを考え始めていた。
(あの凛という女剣士め。何かにつけて邪魔をしおる。何とかし
て奴を生け捕りにして、懲らしめてやることは出来んもんだろうか
・・・。)
越後屋は、隠密と陶玄斎の力を利用しようと思案していたのだっ
た。
その日も、弥太郎は凛にいつもの尼僧院へ来るよう、密かに呼び
出しを受けていた。凛から尼僧院に呼び出されるのは弥太郎にとっ
ては、殊の外嬉しいことでもあった。自分の主とも言える凛に責め
苦を与え続ける間、放出してしまわないように我慢を続けることは、
辛いとも言えたが、その後、褒美としてまぐあいを交わすのを許し
て貰えるのだ。その為なら、どんなこともする覚悟であった。
懐には、非人の村で手に入れてきた猪豚の腸を七寸ほどに切った
ものを携えている。その使い方にも大分慣れてきた。江戸城の大奥
では、上様のお目通りが久しくなっている腰元等が、出入りする僧
侶などと密通する際に用いたりしているとの噂も聞いていた。間違
って腰元等に上様以外が胤を授けたなどということが明るみになっ
たら即刻、打ち首は免れ得ないからである。それでも、己の性欲を
我慢しきれない女官や腰元たちが、それを使って男衆をそそのかし
ているらしかった。
しかし、弥太郎の使い道はそれとは異なっている。そのことは凛
と自分以外は誰も知らない筈であった。
弥太郎は辺りに誰も居ないことを振り返って確かめてから尼僧院
の門を潜る。凛との秘密の鍛錬の際には、尼等は必ず何処かへ出掛
けて不在の様子だった。おそらく凛が住職に頼み込んで人払いをし
ているのだろうと弥太郎は想像していた。
密かに尼僧院に踏み入っていった弥太郎だったが、越後屋が仕向
けた女隠密がその後を弥太郎に気づかれないようにつけていたこと
には気づいていないのだった。
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