rin5

美剣士、凛



その1


 峠の頂きが漸く視界に入ってきた。長い、長いつづら織りの昇り
坂もあと一歩だ。毎日の朝稽古を欠かさず身体の鍛錬を続けてきて
いる凛でも、さすがにこの昇りには息が切れそうになる。しかし、
凛がここで息を整える為に、一服の休息も取らないでいるのは、さ
きほどから凛の後ろに人の気配を感じるからだった。

 それは山の中腹を少し過ぎたあたり、谷底を流れてくる清水の音
にして、それまでずっと我慢していた尿意を晴らそうとした頃から
だった。山の中で、行き交う人も全くと言っていいぐらいに居なか
った。厠の無いこんな山道で、用を足すのは沿道の脇ぐらいしかな
い。ひと気がないとは言え、凛のような女人が、道の傍でいきなり
用を足す訳にはゆかない。道から少しだけ外れて藪の中で、腰の帯
を緩めて袴を下ろし、身体を沈めたところで誰かの視線を感じたの
だった。人の気配というより、射るような目線といったほうがいい
かもしれない。むしろ殺気に近いものだった。腰の二本の得物をす
ぐ手が届くところに置くと、辺りを窺がいながら股を割る。
 張り詰めた緊張が解けないので、なかなかゆばりは出てこなかっ
た。
 (気のせいだろうか。)
 再び訪れた静寂を、自分の股間から迸りでるものの地面を撥ねる
音だけが響いていた。
 手にした懐紙でその部分をそっと拭う。立ち上がって袴を直し、
得物を差し直す。人の気配は消えていた。傍の清水の流れの中で手
を清めると再び街道に戻る。

 歩き出したところで、自分の足音に混じって、別の足音がするの
を感じる。すっと足を止めると、そちらもすっと止まる。歩調を合
わせ、気配を消しているのだ。
 峠の頂きに近い、鞍の背のようになったその辺りは、すこし開け
ていた。
 「何者だ。名を名乗れ。」
 凛は後ろを振り返ることもなく、じっと立って気配を窺がう。え
もいわれぬ殺気が漂う。素早い足裁きの足音とともに、太刀を振っ
てくる風音に、凛は飛び退くようにして、その一掃いを除ける。
 「何者だ。名を名乗れっ。」
 さっきより厳しい声で、凛が再び威喝する。
 目の前に箕の傘を目深に被った上背のある男が立っていた。見る
からに浪人の身形である。真剣の大刀を手に、半月に構えている。
 「冴島凛とお見受けする。ひとつ、お手合わせ戴こうか。」
 「名も知らぬような輩と太刀を相まみえる様な酔狂さは持ち合わ
せてはおらぬ。お引取りいただこう。」
 「拙者を、九鬼陶玄斎と知ってもか。」
 男は少しだけ顔を上げた。無精髭ののびた顎と薄気味悪い笑みを
浮かべる歪んだ口唇だけが、凛には確認出来た。
 「九鬼陶玄斎なる知り合いはおらぬ。」
 そう切って捨てるように言い切ると、凛は再び背を向けて歩き出
そうとする。
 「おのれ、そうはさせぬ。」
 再び太刀の一振りが空を切る。その一瞬前に凛はさらに一歩、遠
のいていた。只ならぬ腕であることは、剣の道を精進する凛にはす
ぐに判る。
 (九鬼、陶玄斎・・・。)
 名前は凛も聞いたことがあった。それも、よからぬ噂を通じてで
ある。凛は向き直って男に対峙する。男は既に太刀を構え、次の手
の備えをしている。男の太刀の切っ先がすうっと持ち上がり、大刀
をふりかぶる。
 「いえぇーっ。」
 鋭い気合とともに、男の太刀が、凛の肩口を掠める。しかし一瞬
早く、凛の大刀の背が男の腹を襲っていた。瞬間の居ぬき、しかも
峰打ちである。誰にでも出来る技ではない。
 男が膝を折って崩れ落ちるのを、凛は最後まで見届けていなかっ
た。
 (無用の斬り合いは、ご免こうむる。)
 突然に要せられた緊張のために、凛の息は却って静まってきてい
た。男を峠の原に残したまま、凛は麓の城下へと足を速めていった
のだった。


続き


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