アカシア夫人
第三部 忍び寄る男の影
第三十三章
いつものように、小位置時間ほど山小屋喫茶で時間を潰してから山荘へ戻ってきた貴子だった。その日の貴子はしかし、やっと胸の痞えが取れたところだった。うまく岸本という男に、先日の蜂の巣の一件を夫に内緒にしておいて貰えるよう頼めたからだ。岸本が何処かで喋ると、それが夫の耳に入る惧れがあったのだ。特に山小屋喫茶とか、茅野のスーパーとかで人伝に知られたりするのは困ることだった。男を一人の時に山荘へ導きいれたことが、貴子が言わない前に知られるというのが一番和樹を激怒させるであろう事はよく判っていた。しかし、だからと言って、貴子のほうから先に知らせたとしても夫が許してくれるとは思えなかったのだ。雨に降り篭められて、車で送って貰っただけで、ベルトの鞭まで振るわれたのだ。今度は何処まで疑われて、何をされるか判ったものではなかった。岸本はうまく察してくれたようだった。そういう意味でもいい人なのかもしれないと貴子は思うのだった。
(それにしても・・・)と貴子は思う。
夫の和樹の性に対する変貌ぶりは、特に蓼科に越してきてからは激しさを増す一方だった。藤沢の実家の敷地内に棲んでいた頃は、あんな事はありえないことだった。和樹と結婚した直後は、自分の実家の傍にあった敷地に家を建てて貰ってずっと棲んでいた。実家には数分もかからずに帰ることが出来たし、食事に呼ばれることも多かった。父親は厳格だったので、そこに慮るようなところが和樹には感じられた。夫婦の間であっても、変なことをすれば、すぐに親元に駆け込むのではないかと和樹が思っていた節がある。しかし、両親ともなくなり、親から譲り受けた土地、家屋を売り払って、蓼科の奥に引っ込んでからというもの、和樹には遠慮がなくなったようだった。それまで鬱積していたものを一気に晴らそうと思っているようにさえ感じられた。義父、義母の呪縛から解き放たれた和樹は自由奔放になった。逆に何かにつけて自分なりの意見をはっきり言っていた貴子のほうが、いまでは何をするにも和樹が頼りで一切逆らえない。財産だって、自分の親から相続した筈なのに、どう相続しているのか貴子自身は一切知らない。実家を売って蓼科に土地と別荘を建てた際にも、名義は自分ではなく和樹になっているようだし、自分名義の貯金だって、今では全く無いといってよかった。だから和樹には何を言われても逆らえないのだった。
だから性生活において、和樹が自分を性の奴隷のように扱うことにはどうしても馴染めず嫌だった。しかしそれを止めてくれということは出来なかったのだ。もともと夫は性には淡白なのだと思っていた。フェラチオだって、そういう事があるというのは週刊誌などで見知ってはいたが、まさか自分ですることがあるなどとは思いもしなかった。勿論、夫も求めてきたりしなかったし、自分からもしてみるなど考えもしなかった。
しかし、今は生理で出来ないと拒めば、必ず口での奉仕を求められた。いや、求めるのではなく、縛って自由を奪った上での、強要であった。
縛られてするセックスというのも、興味がない訳ではなかった。しかし、夫の和樹にそうされるのは、貴子としてはどうしても受け入れがたいものだった。夫ではなく、せめてあの人とだったら。ついそう考えてしまう貴子だった。
夫に縛られて、半ば犯されるようにしてセックスをしている時も、相手が夫ではなく、あの人なのだと目を瞑って思い込むようにしてみたこともあった。あの人なら許せるという思いと、もし自分が想像していることが夫にばれてしまったらという惧れとが交錯して貴子は気を落ち着かせることが出来なかった。それで、夫との時は何も考えないことにして、ただされるがままになることにした。その分、夫が居ない晩にひとりで自分を慰めることが次第に増えてきてしまっていたのだった。
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