盗聴男

アカシア夫人



 第三部 忍び寄る男の影



 第三十一章

 男はスイッチをオンにしてからイアホンを片耳に突っ込んだまま、ゆっくりとボリュームを上げてゆく。

 「ねえ、貴方。前から気に掛っていたのだけれど、玄関前の鉢の下に鍵を置いておくのって、危なくないこと?」
 「また、それか。だって、もうあんな目には遭いたくないからね。」
 あんな目というのは、嘗て夫が鍵を会社に置き忘れて帰宅した時のことだ。遅くなるから先に寝てていいと言われて貴子も安心しきって先に寝てしまったのだった。山荘に辿り着いた夫が鍵を忘れたことに気づき、何度もドアチャイムを鳴らしたのだったが、ぐっすり寝入っていて、貴子が気づかなかったのだ。その日は夫は諦めて街まで歩いて戻り、駅前のビジネスホテルに泊まったとの事だった。
 貴子に落ち度があった訳ではなかった。先に寝ていていいと言ったのも夫だった。しかし和樹は貴子のことを許してはいない風な空気を貴子は感じた。
 その後、ドアチャイムの位置を寝室の傍に移し、更には合鍵を玄関前の植木鉢の下に隠すようになったのだった。
 「植木鉢だって、幾つもあるんだから簡単には見つからないさ。心配なら数を増やせばいい。だけど、鍵を置いたあの白い鉢のところから移すなよ。俺が探し回らなくてはならない目には遭いたくないからな。」

 白い鉢と聞いて男はにやりとする。男は盗聴器から響いてくる夫婦の会話のボリュームを少し落すのだった。
 普段から木登りを得意としている男にとって、あの山荘のバルコニーへ縄を掛けてよじ登るのは、雑作もないことだった。あのバルコニーの手摺りにはお誂え向きの突起まで付いていた。縄を投げ上げると簡単にその突起に縄が引っ掛かってくれたのだ。
 持っていったのは、オオアシナガバチの作りかけの巣だった。しかし素人にスズメバチの巣と区別がつく筈もなかった。バルコニーによじ登って、軒先に接着剤でそれを貼り付ければいいだけの事だった。
 山荘の女主人はまんまと男を部屋へ導きいれさせられてしまったのだ。しかも危ないから廊下へ出ていてくれとの言葉も何の不審も抱かずに従ってくれた。おかげで、見つかりにくい場所を探すのに充分な時間が取れたのだった。
 男は山荘の主人である夫が出掛けて留守にする日は完全に把握していた。そればかりか妻の生理の日だって、山荘から出されるゴミの採取で完全に把握しているのだった。これで合鍵まで入手してしまえば、夫婦の生活はすべて筒抜けになってしまうのだった。

 カン・コーン。
 山小屋喫茶、カウベルの扉がいつもどおりの音をたてる。
 「いらっしゃいませ。いつもので宜しいですか。」
 マスターが貴子に声を掛ける。もうすっかり貴子も常連になっていた。いつもの席に腰掛ようとして、奥から立ち上がってやって来た男の姿を認める。
 「あの、この間は本当にありがとうございました。」
 再度、深々と貴子はお辞儀をする。
 「いや、偶々通り掛かっただけですから。」
 「あの・・・。不躾なお願いなのですが。」
 貴子は、ずっと気に掛けていた言葉を勇気を出して口にした。
 「あの日の事、蜂の巣を取り除いて頂いたことなのですが、内密にして頂けないでしょうか。」
 「は、・・・。あ、そうか。ご主人のことですね。お一人のお宅へ上がらせて貰う事になっちゃったからですね。わかります。このことは無かったことにします。」
 男はマスターのほうへ、聞かれなかったか気にしてちらっと振り向いてみてから貴子にそう言ったのだった。
 「申し訳ありません。ちょっと神経質な夫なので・・・。」
 神経質という言葉を使いながらも、貴子はその事で自分が受けた仕打ちのことを思い出し、もう少し棘のある言い方でも良かったかと思うのだった。
 「ははは。いや、わかります。気になさらないで下さい。それだけ、奥さんがお綺麗だという事です。じゃ、ごゆっくり。」
 男はそう言うと、マスターに挨拶して店を出ていったのだった。
 貴子は男が理解のある人らしいと安堵しながら、席に着く。しかし、貴子と入れ替えになったことで、男にとって、またとないチャンスが生まれたと思いながら男が出て行ったなどとは思いもしないのだった。

 男は店を出て、自分のジープを真っ直ぐ貴子の山荘へ向けて走らせる。合鍵は既に作ってある。徒歩でやってきた女主人が山荘に戻るまでにはたっぷりの時間がある。車に積んでおいた隠しカメラを設置するのには充分過ぎるほどの時間がある筈なのだった。

madam

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