新川優愛8

アカシア夫人



 第三部 忍び寄る男の影



 第三十章

 「奥さん・・・。奥さ~ん。」
 貴子は突然、後ろから呼びかけられて身体をびくっとさせた。いつものカウベルでお茶を呑んで、山荘に戻ってきたところだった。家に入ろうと、玄関の施錠を解いた瞬間に声を掛けられたのだ。振り向くと、少し離れたところにバードウォッチャーと名乗る男が立っていた。リュックを背負い、首に長い望遠レンズの付いた写真機をぶら下げているのはいつもの姿だった。
 「な、何でしょうか・・・。」
 訝しげに思いながらも、貴子は一歩、男に近づいていた。
 「ちょっと、こっち。こっちへ来てみてください。」
 男が貴子を呼び寄せているのは、玄関から裏側に向かう、山荘の角である。その向こうは貴子の寝室に繋がるウッドデッキのあるバルコニーの下にあたる。
 「あそこ、ほら。あそこ、判りますか。」
 男が指差しているのがバルコニーの寝室側の軒下だった。貴子は男が何を言おうとしているのか、さっぱり判らなかった。
 「やっぱり、肉眼じゃ判らないかな。そうだ。双眼鏡があるから・・・。」
 男はそう言うと、背にしょったリュックを下ろし、中から大きめの双眼鏡を取り出し、自分で軒下を確かめてから貴子に手渡すのだった。
 「ちょっと見てみて。軒下の一番端。何か丸いものがぶら下がっているのが判ります?」
 貴子は怪訝な顔をしながらも、渡された双眼鏡を目に当ててみる。
 「えーっと・・・。あれ、かしら・・・。蜂・・・の巣?」
 「オオスズメバチです。物凄く獰猛で、危険なヤツです。」
 「えっ、スズメバチ?」
 貴子は突然言われてうろたえる。スズメバチが危険な存在であることは知っていた。
 「さっき羽音を聴いて、追ってきたんです。ちかくに巣を作ろうとしているなと思って。」
 「あれ、スズメバチの巣なんですか。」
 「まだ、ちいさいですけどね。すぐに巨大になりますよ。早く撤去しないと。」
 「ええ、どうしよう。私じゃどうにも出来ないわ。」
 男はにやりとして人差し指を立ててみせる。
 「大丈夫。私は森に暮らして長いので、慣れています。すぐ取ってあげますよ。」
 男はそう言うと、リュックから何やらスプレーのようなものと丈夫そうな袋を取り出す。
 「あそこへ案内して頂けますか。」
 「あ、ええ・・・。はいっ。」
 そう言うと、貴子は男を玄関のほうへ案内する。

 貴子はスズメバチの巣と聞かされてすっかり気が動転していた。全くの見知らぬ男という訳でもないが、山小屋喫茶カウベルのマスターを通じて多少知っている程度の男である。それを、自分一人きりの時に、家の中へ招じ入れることになってしまうのに気づいたのは、もう男がどんどん二階に向かって階段をあがっていってしまう頃になってからだった。貴子は突然の雨に降り篭められて、ついこの男の車に乗せて貰った日のことを思い出していた。しかし、もう既に遅かった。しかも、スズメバチの巣を何とかするとしたらこの男にまずは頼むしか方法が思い浮かばなかった。
 「えーっと、この部屋ですね。あ、いいですか、開けて。」
 そこは自分の寝室だが、ベッドは朝のうちに綺麗にメイキングしてある。見られて恥ずかしいものはない筈だった。
 「え、どうぞ。お入りになってください。」
 貴子もおそるおそる後ろから付いてゆく。
 男はゆっくりとドアノブを廻して中に入ると、真っ直ぐバルコニーへ出られるフレンチ窓のほうへ向かう。中からガラス窓を通して軒の下を覗きこむ。
 「ふうん。今は居なさそうだな。でも、万が一ってこともある。奥さん、危険ですからちょっとだけドアの外側へ居てください。ドアを閉めてね。」
 男はそう言いながら、スプレーと袋をすぐ使えるように準備している。
 「わ、わかりました。お願いします。」
 そう言うと、貴子は言われたとおり、ドアを閉めて廊下側で待機する。
 部屋の中の様子は判らないが、暫く無音だったのは、様子を窺っているのだと思った。男をひとり寝室に残して待機していると、部屋の中のものがいろいろ気になってきた。貴子は何でもキチンとしておく性格なので、下着などを出しっ放しにしたりはしない。夫は逆に何でも出しっ放しの性格で、いちいちそれをしまうのは貴子の役目だった。壁のマッターホーンの写真の額に中も、夫に見つかるといけないと既に処分してあった。生理用品も今朝ストックを出してきたばかりだが、ちゃんと化粧室の抽斗の奥にしまってある。
 キーッと甲高い音に続いて、シューッという音が聞こえた。フレンチ窓を開いてスプレーを噴射したのだろうと想像する。男の声が下のは、すぐその後だった。
 「奥さん、もう大丈夫ですよ。」
 貴子がおそるおそる扉を開くと、男がスプレー缶と口をしっかり結わえた布の袋を持って奥に立っていた。
 「もう死んでいる筈です。見ますか?」
 男が布袋を貴子のほうへ差し出すが、貴子は後退りする。
 「えっ、いいです。怖いから。」
 「そうですよね。でも、巣がちいさいうちで良かった。ちょっと大きくなると始末に終えませんからね。」
 そう言いながら男は部屋の中を一瞥する。
 「素敵なお部屋ですね。何もかも綺麗に片付いていて、まるでホテルの部屋だ。」
 「そんな、恥ずかしいです。」
 「あ、奥様の寝室ですか。失礼しました。すぐに出ます。」
 男は慌ててそう言うと、袋をリュックにしまいながら貴子の傍をすり抜けて部屋の外へ出る。貴子も後からつき従う。
 「あの、お茶でも差し上げないと・・・。」
 「いや、とんでもない。今はお一人のようだから、また今度にします。」
 「本当にありがとうございました。」
 貴子は男が玄関から出ていくのを、深々とお辞儀しながら見送った。
 (今はお一人のようだから・・・か。)
 自分が山荘に一人で居ることを知られてしまったようで、貴子は少し不安になる。しかし男は好意で貴子の急難を救ってくれたのだ。
 (案外、悪い人ではないのかもしれない。)
 貴子は夫との事があったので、気を許さないように警戒したことを済まなくも感じるのだった。

madam

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