妄想小説
淫乱インストラクタ ~ 嗚呼、勘違いの一人相撲
第十五章 夫々の代償
「おう、浅川。てめえ、どうにかしろよ。あの、桂木のやろう。俺に突かれてヒイヒイ泣いてやがった癖に、この頃、なんだか変につんけんしやがって。」
「課長、声が大きいですよ。それにちょっと飲み過ぎなんじゃないですか。あの桂木のことは、職場の中じゃ拙いですよ。他の社員が見ているんだから。あれはあくまでも裏の世界のプレイだけのことなんです。表の世界でそれをやったら、警備員に痴漢の現行犯で捕まったって知りませんよ。」
「なんだよ。お前、何でもやらせることが出来るって言ったじゃないか。それで、部長代理に任命するって約束だったじゃないか。桂木のお尻をちょろっと触るってのも駄目っていうのか。」
「ちょっと、声が大きいです。駄目ですよ。表の世界では。私がここならいいっていう設定じゃなきゃ。いいですか、私が指示するまで待ってください。そう、一週間。一週間だけ待ってください。そういう場を設定しますから。いろいろ準備だって要るんです。」
「一週間も、悶々として待てっていうのか。」
「・・・・。」
酔った勢いというのもあったが、浩子を犯すという味をしめた磯山は、さかりのついた猫か、初めて自慰を憶えた猿さながらだった。その思いはどんどんエスカレートしているのを浅川も手がつけられないと思い始めていた。少し磯山の思いをセーブする策を考えねばと思ったのだ。
「課長、これ、何だかわかりますか。」
浅川は奥の手を出すことにした。胸のポケットに隠し持っていたものだ。それはぴっちりと封の出来るビニル袋にいれた浩子からの戦利品だった。透明のビニルを通して、白いレース地の布の切れ端のようなものは、すぐに女物のパンティだと誰だって判る代物だ。
「パ、パンティじゃないか、それは・・・。ま、まさか、あの・・・。」
「ちょっと目を閉じてみてください。私がいいと言うまで。いいですか、じゃあ。」
浅川は磯山がちゃんと目を瞑ったのを確認してから、手にしたビニル袋のジッパーをちょっとだけ開いて、磯山の鼻の前にかざす。
「ううっ・・・。この匂いは・・・。」
磯山の顔がほころぶのを見て取るや、急いで再びぴっちり封をする。浅川も磯山が匂いフェチであるのに気づいていたが、それほどまでとは思っていなかった。浅川は既に浩子が身に付けていたパンティを何枚も奪い取っていたが、それは最初に手に入れた、浩子が何故か何かを勘違いして自分のほうから浅川に献上された代物だった。一週間穿かせっぱなしにさせてべっとりと沁みをつけさせた一枚に比べ、匂いはほんの微かだと思っていたのだが、磯山の鼻はそれでも浩子の匂いを敏感に感じ取っているようだった。
「どうです。欲しいですか、これっ。」
浅川は磯山の目の前で何度か袋ごと振ってみせてから、素早く胸ポケットに袋を戻した。浅川にも磯山が喉を鳴らしたのがわかった。
「ほ、本物の、桂木の下着なのかっ・・・。く、呉れっ。そいつを、俺に呉れっ。」
磯山は懇願するように、浅川の両袖にしがみついてきた。
「今はまだ駄目です。明日、ちゃんと一日、会社の中で何もしないで我慢出来たら、ご褒美に差し上げます。どうですか、出来ますか。」
「も、勿論だとも。ふひひひひ・・・。」
磯山は意味ありげな、下卑た笑いを噛みしめて相好を崩している。その姿を見て、とりあえずは何日かは稼げるだろうと、浅川のほうは計算している。まだ、一週間分の沁みのついたパンティも持っている。それを使えば、一週間は磯山に我慢させることも出来るだろうと踏んでいた。
(しかし、それ以上は、無理かもしれない・・・。それまでには何とかしなくちゃならない。)
浅川の目がぎらりと策略家の鋭い目つきになって光っていた。
磯山が浩子を強姦した次の日、給湯室のほうで、浩子と磯山の間に何か一悶着あったらしいのは浅川も気づいていた。その日の午前中は素知らぬ振りをして過ごし、午後は営業の出張と称して外へ出た浅川だった。が、その日向かったのは、いつものパチンコ屋ではなく、会社からは少し離れた珈琲テラスだった。その奥に席を取りながら、今後の策を練っていたのだった。
無記名で送った写真と脅迫文を浩子が自分のところへ持って来るだろうことは計算のうちだった。それを送ったのは、自分ではなく、第三者の誰かなのだと浩子に思い込ませる必要があった。それには一芝居打つ必要があり、そこまでの芝居が自分に出来るか、浅川には自信が無かった。それで、浩子には目隠しをさせることを思いついたのだ。自分の表情さえ見せなければ、ついている嘘もばれないのではと考えたのだ。それがまんまと功を奏した格好となった。泣きついてくる浩子に、(お前の犯されたシーンを暴露されたところで、何も失うような価値はない)と愚弄するのは、浅川にとっては復讐の愉悦にひたれる一瞬だったが、それを浩子はまんまと信じた。そして、あの写真が公表されて本当に失うものがあり、困るのは課長の磯山なのだとそれとなく仄めかすのに成功したのだった。
次の日、事務所に出てきた浩子は、磯山の様子に異変があるのを敏感に感じとっていた。相変わらず嫌らしそうな目で、浩子のほうを盗み見ているようなのだが、浩子が視線を向けると、何か済まなさそうに下を向いてしまうのだ。自分を呼びつけたり、廊下で擦れ違い様、お尻を触ろうとしてくるようなことも無くなっていた。それどころか、浩子が磯山のほうに近づこうとすると、態と避ける節まで見られた。それはしかし浩子の逆鱗に触れるのを畏れてというよりは、何かを我慢しているかのようにも見えたのだった。
浩子のほうは、写真と脅迫状を送りつけてきた見知らぬ者のことをまだ心配していた。浅川に相談して一度は心配することはないのだと自分に言い聞かせては見たものの、あんな写真が貼り出されたり、ばら撒かれたりしたら、恥かしさでもう会社には出てこれない気がした。そう思うと、心配でならないのだった。確かに、写真を送りつけてきた脅迫者は浩子を辱めたところで何の利益もないのだ。自分だって、この東京へ出てきて、自分のことを見知っているのは、会社に居る極僅かな人間しか居ない。あの写真が公表されたら、恥かしくて会社には来れないように思うが、会社を捨てるのが惜しくてならないほどの給料を貰っている訳ではないし、出世の道が約束されているようにも思えない。居づらくなったら辞めたってどうということはないと浩子も思う。それでもあんな写真を一部の人間にでも公表されるのは嫌だった。
何も起きないで一日が過ぎた定時後、浩子は、磯山が強引に浅川を呑みに誘っているのを横目に見て、今のうちにさっと帰ってしまおうと声も掛けずに事務所を出たのだった。
「なあ、約束だろ。早く寄越せよ、例の物。」
浅川は磯山が心を入れ替えたかのように、昼間事務所では大人しくしていたのを見ていたので、浩子の下着の入った袋を渡さない訳にはゆかなかった。それを居酒屋のテーブルの下で、そっと受け取ると、欲しくてたまらなかった玩具を貰った子供のように、嬉しそうに胸の内ポケットにしまって、それでも安心出来ずに、何度も何度も内ポケットを確認する磯山の姿に、(これだけでは済まないな。)と一抹の不安を感じている浅川だった。
「なあ早速だが、今度のプレイだけど、ちょっといいことを思いついたんだ。これを見てくれよ。」
そう言って、磯山が傍に置いてあった革鞄を開いて、外には出さずに浅川に見せたのは、何やら黒っぽいビロードの服のようだった。磯山が外に出ないように用心しながらひっくり返すと、白いレースのフリルが付いているのが判る。その奥にはこれも白いレースの縁取りのついたエプロンのようなものもその下にあるのが見えた。エプロンの存在からして、黒いのはメイド服だなと浅川は見当をつける。
「電気街の奥に、こういうのを扱っている店を見つけたんだ。結構いろいろあって、えぐいのもあるんだ。その中から選びに選んできた衣装さ。思いっきり丈は短いのにしてやった。真直ぐ立ってても、パンツが見えちゃうようなやつさ。そして、これだ。」
今度は、磯山は鞄の奥から、紐のついたような白い布切れを取り出した。
「何だと思う、これっ・・・。褌だよ。越中褌っ。こいつをパンティの代わりに穿かせるのさ。思いっきり短いスカートの裾からこいつが覗いている格好で、(ご主人さま。なんなりとお申し付けください。)って言わせて傅ずかせるのさ。あの高慢ちきな桂木のやつが、俺の前に跪いて許しを請うんだ。そしたら、俺は許す訳にはゆかないから、罰を与えるって言って、裸の尻を出させて、そこに鞭を当てるんだ。」
一気呵成に捲し立てる磯山の興奮したストーリーに、浅川は磯山の嗜好が微妙に嗜虐的になってきているのに気づいていた。それはお預けを喰らわされて、しかも普段事務所では冷たい仕打ちを受けている反動なのだろうと思う。しかし、給湯室でお尻を触ろうとして熱湯を手の甲に浴びせられたり、スカートからパンチラを覗かれていた仕返しにシャープペンシルを突き立てられた仕返しであることまでは、浅川も知らない。
「なあ、何でも言うことを聞かせられるんだろ。どんなプレイも演じさせられるんだったよな。こういう演技もちゃんと出来るんだろうな。」
「・・・、ええ、まあ。だ、だけど、僕がいいって言った場所でだけですよ。あくまでも僕が場所を設定させて貰いますから、それまでは待って貰わないと。」
念を押した浅川だったが、次第にエスカレートしていく磯山の妄想に、浅川は計画を早めなければ危ないと感じだしていた。
アパートに戻った浩子は、郵便受けから少しだけはみ出ている、見覚えのある白い封筒の端を認めて、戦慄が走るのを憶えた。すぐさま駆け寄って、辺りを見回しながら、それを郵便受けから引っ張り出すと、アパートに入り、しっかり鍵を掛けてから、奥の部屋に縮こまって、その封筒を開封する。
「金の用意は出来たんだろうな。同封してあるのは、お前がいつも使っている駅の北口にあるコインロッカーの鍵だ。そこへ明日の5時半までに金を入れておくんだ。そしてロッカーに鍵を掛けたら、鍵は誰にも見られないようにこっそりロッカーの上にそっと置いておくんだ。置いたら速やかに電車に乗れ。お前のことは見張っているから、こっちを突き止めようとしても無駄だぞ。」
文面をみて、膝ががくがく震えるのを止められなかった。
(どうしよう。浅川さんにまた相談しなければ。)
手紙を握り締めて、また眠れない夜を過ごす浩子なのだった。
「で、だからどうしようっていうんだ。」
「わ、わたし・・・。どうしていいか、わからなくて。お願いです。助けてください。」
今ではすっかり二人の密会の場所となってしまった二階の倉庫部屋で、今度も目隠しをしたままで、浅川に対峙している浩子だった。その部屋で浩子と逢う時は、いつもアイマスクを着けることを命じられているので、浩子は最早何も疑うこともなかった。
「何一つ、自分じゃ解決できないって訳だ。とんだ馬鹿だな。・・・、まあいい。それじゃ、俺が言う通りに手紙を書いて、コインロッカーに入れてくるんだ。手紙はその裏に書けばいい。窓のほうを向いたら、アイマスクはずらしていいぜ。但し後ろは振り向くな。」
その時、浩子は以前に繋がれたスチール机を前にして、回転椅子に座って、出口にほうに立っている浅川に対峙していた。浅川に言われるまま、手探りで回転椅子をずらして、テーブルの前を移動し、浅川に背中を向けると、窓のほうを向いてアイマスクを額のほうへずらした。
「ペンは持っているな。よし、俺の言うとおりに書いていくんだ。・・・。あの写真は公表されても構いません。だから、お金を払うつもりもありません。但し、後一週間だけ待って貰え、先にネガを渡してくれるなら、100万円を一度だけ、払ってあげてもいいです。応じるつもりがあるなら、もう一度手紙を下さい。・・・。そうだ、それでいい。それじゃ、それを金の代わりにロッカーに入れてこい。」
浩子は浅川に言われる前に額のアイマスクを下ろし、視界を塞いだ上で、背後の浅川のほうへ向き直る。
「こんなことを書いて、大丈夫なんでしょうか。」
「前にも言っただろう。脅迫者なんてのは、要求に応じれば、何度でも要求してくるものなんだ。金が手に入らなければ、お前の写真なんて何の価値もない。絶対、応じてくる筈だ。少しでも金になれば、儲け物だからな。」
「でも、100万円なんてお金、私には払えません。こんなこと書いて、大丈夫なんでしょうか。」
「その事は心配要らない。俺に任せておけ。その代わり、そいつに言われた通り、ロッカーに手紙を入れたら、そのまま必ず電車に乗るんだ。そいつはお前が電車にちゃんと乗り込むか、何処かで見張っている筈だ。変な行動を起せば、何をしだすか判らないぞ。いいな。」
「わ、判ったわ。・・・お願いします。浅川さんの言うとおりにしますから、お金のことはお願いします。貯金だって、100万円なんて、ある訳ないんだから。」
「お前の給料が幾らぐらいか、貯金がどれだけあるかなんて、同じ会社に居れば想像はつくさ。俺の言うとおりにしていれば、100万円払う必要なんかなくなるさ。いいから俺に任せておけ。それじゃ、またな。」
見えない向こうでドアが開けられ、浅川が出て行く音だけが、浩子には聞こえたのだった。
次の日、出社しようとする浩子の元に、久々に浅川からの携帯が掛かってきた。前日の夕方には脅迫者と浅川からの指示通り、お金ではなく脅迫文の裏紙に浅川に指示されて書いた文面の手紙だけを入れて、ロッカーの鍵を掛け、辺りを注意深く見回して、誰も見ていないことを確認して鍵をそっとロッカーの一番上のところにそっと置いた。それから、いつもの帰りの電車が出るホームへ直行し、そのまま帰ってきたのだった。それ以降、男からの更なる手紙も、浅川からの連絡もなく、気が気ではない夜を明かした浩子だった。
その朝、浅川からの携帯で浩子が受けた具体的な指示は、幾つかあって、メモも取らされた。ひとつめは、出社する際の格好について。浩子の持っている、一番丈の短いスカートを穿いてくること。いつか、浅川に朝方、マジックで悪戯書きされて、思いっきり短く切り詰めさせられたお気に入りだったものだ。そんな丈にさせられてからは、浅川に特にと命じられた時しか穿いたこともない。二つ目の指示は男から送られた写真をカラーコピーを取って封筒に入れ、封筒の宛先に「社内倫理委員会御中」と書いたものを用意しておくというものだった。「社内倫理委員会」という名前は、浩子には初耳だった。社内の事情、特に、本社のほうの情報は、浩子たちのような末端の現場にまではちゃんと展開されてくることは稀だった。浅川の指示は、写真のコピーと封筒の宛先の他は何も要らないとのことだった。そして、最後の指示は、その日も残業で居残れというものだ。これまでと同じように、残業時間になったら、窓のブラインドを全部上げておくことも指示されていた。
浩子には浅川の意図が何が何だか理解出来なかった。しかし、何となく感じ取ったのは、危険な雰囲気だった。短いスカートを穿かされ、ブラインドを上げて、残業で居残れというのは、自分がまた犯される状況に他ならない。それが、浅川が言う、脅迫状への対応とどう関係してくるのかは、浩子には飲み込めなかった。犯される、もしくはそれに近い状況に追い込まれる自分のことを想定して、真新しい下着をおろして、夕方までは汚れをつけないように、パンティライナー式のナプキンを当ててゆくことにした。
浅川から昼間何もしない褒美に、桂木浩子の物らしい下着の入ったビニル袋を受け取って帰った磯山は、誰も居ない独り身のマンションで誰にも邪魔されないように鍵をきちんと掛けてから、下着を大事そうに取り出すと、匂いを嗅ぎながらオナニーを始めた。下着の裏側に沁み付いた匂いは、間違いなく、時々桂木の近くに居る折に、感じたことのある匂いに間違いなかった。下着の裏側のクロッチの部分には、最早湿り気はないが、うっすらと沁みのようなものがあるような気がする。嘗ては自分の部下の大事な部分を蔽っていた布地だと思うだけで、磯山は久々に激しく勃起した。目を瞑って、桂木の手脚を縛り上げ、机の上で犯した時のことを思い出しているとたちまち昇りつめ、抑えきれない迸りが磯山の部屋の宙に飛び散った。
思う存分射精して果てると、陰茎が萎えてくるのと共に、虚しさがこみ上げてきた。犯していた時の興奮が褪めて、代わりに給湯室で桂木にカップの湯をぶちまけられたこと、パソコンの指導をさせていた時にパンチラを覗いているのを見つかって、シャープペンシルの先を突きたてられた時のことが思い出されてくる。今度は、徐々に桂木に対する怒りがこみ上げてきた。
(畜生、あの生意気なアマめ。今度はたっぷり借りを返してやるからな。)
一旦は思いを遂げた相手に、素気無くされたことで、磯山にも桂木に対する嗜虐心が芽生えてきていたのだった。
次の日、浩子の穿いてきた衝撃的な超ミニの姿に最初に気づいたのは、いつもながら浩子に一番関心を持っている磯山だった。浅川は首尾よく磯山の課長代理という立場を得て、浩子を顎でこき使えるようになってからは、浩子を辱めて虐めるということに飽きてきていて、恥かしい格好を強要することも無くなってきていた。以前の高圧的な態度を改め、目下の筈の浅川に不本意ながらも敬意を表し、話し掛けるのも敬語を使うことさえ抵抗が無くなってからは、浅川のほうも、変な性的な虐めを仕掛けてくることも無くなっていた。その為に、浩子も最近は、若い後輩女子社員が眉を顰める様な格好もしないで済んでいたのだ。
それだけに、その日の久々の浩子の格好は皆の注目を惹いていた。が、その格好にとりわけ目をぎらつかせていたのは、磯山だった。遅めにやってきた浅川が事務所に入ってくるや、磯山は立ち上がって、浅川の袖を引っ張って、個室になっている会議室の中へ連れ込んだ。
「おう。遅かったなあ、浅川君。ま、それは別にいいんだが、あの、桂木君の格好。もしかして、今夜あたり、例の・・・。いいのかな。」
「ま、一応、彼女に残業をいいつけてありますけど。私は早く帰りますんで、そこへ課長が見にいくかどうかは、私は関与しませんから。」
「いいんだ、いいんだ。課長が課員の残業勤務状態をチェックするのは、本来業務だからな。夜のことは俺に任せておいて、君は帰ってくれて全然構わないから。そうだ、あの例の守衛室の監視カメラ。今夜はちゃんと切っておくように言っておいてくれよ。この意味、判るよな。」
「守衛室は本来、こっちが依頼しなければ、そんな権限はありませんからね。秘匿性の高い仕事で残業するからって言えば、大丈夫ですよ。ただ、昼間は変なモーションかけたりしないで下さいね。目撃者が居るところでのセクハラ行為は命取りですからね。」
最後の一言は、実は、浅川が精一杯の皮肉をこめて放った言葉だったのだが、夜のプレイのことに有頂天になっている磯山の耳には届いていなかった。
そして、何事も無い、一見極普通の一日が過ぎて、定時のチャイムが鳴る。ぞろぞろと退社する者が続いた中、居残っていた者もひとり、二人と減っていき、1時間もしないうちに、事務所に残っているのは、浩子独りになっていた。浅川からは、連絡があるまで勝手に帰ってはならないと釘を指されていた。自分が独りになると、命じられた通り、ブラインドを全て上げておく。以前の夜と同じように、明るい内部の照明のせいで、窓一面のガラスは鏡のようになって、中から外はよく見えない。浩子は脅迫者が今夜も覗いている気がして、事務所の照明を自分の席の上だけを残して、ひとつずつ落としていった。
(浅川は何を考えているのだろうか。また、窓に向かって痴態を演じろと命令してくるのだろうか。そんなことをしたら、またあの脅迫者に脅迫ネタを提供してしまうことになってしまう。それとも自分を囮にして、あの脅迫者を見つけ出して捕えるつもりとでも言うのだろうか。)
しかし、何もかも浅川に任せるしかない浩子は、ただ独り、がらんとして自分の席以外は暗くぼおっとしか見えない寂しい事務所の中で、浅川からの指示の電話が掛かってくるのを待つしかなかった。
その時、ガチャリという微かな音が背後の方でしたのを浩子は聞き逃さなかった。音は事務所の出入り口からだった。鍵は掛けてはいない。様子から、巡回の警備員とも思えなかった。ゆっくりと扉が音を立てないように開けられていくのが判った。
「磯山課長っ・・・。」
入ってきた男の姿を見て、浩子は襲われて犯された時の衝撃的な事件を思い出し、身体中の血が逆流するかのように感じた。
「な、何ですか。こ、こんな時間に・・・。」
磯山と、たった二人だけで夜遅い、ひと気のないビルの中に居ることに気づいて、浩子は身の危険を感じる。近づいてくる磯山に背を向けないようにそっと立つと、そのまま後ずさりして、ブラインドの上がっている窓を背にして立った。磯山は何かを手にして背中に隠している様子で、浩子のほうへゆっくり近づいてきていた。
「上司が、部下の残業の様子をチェックしにくるのは、当然の行為だろ。ちゃんと仕事をしているのか。それとも、他人が居ないのをいいことに、オナニーに耽ったりしていないか・・・。」
「何てことを言うのです。いくら課長でも、そんなことを仰れば、出るところへ出ますよ。」
「ふふふ、今日はそんな反抗的な芝居はしなくていいんだよ。最初っから大人しく、服従する役を演じてくれりゃあいいんだよ。その為にこうして用意してきたんだから。今晩の君の立場をぴったり演出するコスチュームをね。」
そう言うと、背中に隠していたメイド服の衣装を、浩子の目の前に放り投げた。白いレースの縁取りのついた黒のビロードの上着、フレアな黒いスカートは短すぎて腰飾りでしかない。その二つの衣装に純白のこれもレースの縁取りのついた胸当て付きのエプロンがあった。最後にその上に載せたのが、麻布で出来た越中褌だった。
「さっさと裸になって、これを纏うんだ。下着はこの褌だけだぞ。」
得意になって喋っている磯山を浩子は遮った。
「どういうつもり。何で貴方の言いなりになって、そんな格好をしなくちゃならないっていうの。」
予想外の浩子の剣幕に、一瞬磯山は唖然としてひるんでしまう。が、早くプレイに移りたい思いが相手の冷静さをおかしいと思わせなかったのだ。
「ようく胸に手を当てて考えてみるんだな。お前には俺の言うことを聞かなければならない理由がある筈だ。」
どういう経緯で、目の前の桂木浩子が浅川の言いなりになるようになったかは、磯山は聞かされていない。しかし、浩子を犯した二度の経験から、浅川の言うことを聞かなければならない確実なものがあると信じて疑わなかったのだ。
「さあ、さっさとその服を脱ぐんだ。その短いスカートも俺の為に穿いてきたんだろうが、今日はもっとえぐい格好をして貰うぜ。パンティじゃなくて、その褌だ。」
「何時までも何を訳の分らないことを言っているの。貴方の前で、メイドの格好をするなんて、真っ平よ。」
「おや、俺の今回の望みがちゃんと伝わっていなかったみたいだな。またこの間のように、嫌々脱がされるというのか。それなら、それでもこっちは燃えるんだよ。今、ひっ捕まえて、ヒイヒイ泣かしてやろうか。」
卑猥な薄ら笑いを浮かべながら、浩子に掴みかかろうと身構えた磯山の格好に、浩子は恐怖を感じて逃げ場を探す。その時、ふと、浅川が用意させたものが頭の中を掠めたのだった。
(そういうことだったのか・・・。)
「ちょっと待って。磯山課長。貴方に見せたいものがあるの。そんな真似が出来るかどうか、まずはそれを見てからにして頂戴。」
浩子は一気に言い放った。呆気に取られたのは磯山のほうだった。
「何を見せようって言うんだ、いったい。」
「そこの私の机の抽斗に入っているものよ。」
磯山が立っているすぐ横の自分の席の机を指して、浩子はいつでも逃げれるように身構える。
「ここに、何が入っているっていうんだ。え、・・・。これか。この封筒に何が入っているって言うんだ。ふん、・・・。えっ、何だ。これは・・・。」
みるみるまに磯山の顔が蒼白になってゆく。磯山は写真のコピーと封筒を手に、その場に崩れるように跪いてしまった。磯山に自分を襲う気力がなくなったのを見て取った浩子は、その隙に逃がすまいと、自分のバッグをさっと引き寄せると、出口に向けて走り出した。が、打ちひしがれた磯山は追ってくる様子はなかったのだった。
浅川から帰っていいという電話はまだ無かったが、浅川が用意させた内容から言って、その日の自分の役割はもう果たしたのだと確信していた。「社内倫理委員会」というものの存在とその意味は今となっては何となく想像が出来た。封筒に書かれたその宛先を見て、磯山が不審な顔をし、その後、写真を見てから俄かに磯山の顔色が変わったことから、そういうものが、どういう目的の為に会社に実際に存在しているのかを、浩子は知ったのだった。
打ちひしがれていた磯山だったが、我に帰ると、すぐに慌てて携帯で浅川を呼び出したのだった。いつもの居酒屋で待つと言われて、散々待たされ、その間、居てもたってもいられないパニック状態にさせられたのも、浅川の計算のうちだったとは磯山には思いもつかないのだった。
「遅いじゃないか。こっちは大変なことになってんだぞ。」
「いやいや、済みません。電話じゃ、よく判らないところもあったんだけど、不味い状況になってきたってことだけは判りました。」
浅川は自分が描いたストーリー通りに磯山が思い込んでいるか確かめながら慎重に言葉を選んで磯山と話し出した。
「何よりも桂木以外の第三者に秘密を握られたってのが不味いですね。桂木のことなら俺のほうで何とでもなるけれど、そうじゃない人間が絡んでくると、僕にだって出来ないことはありますからね。」
「おいおい、心細いことを言うなよ。お前が何でも出来るっていうから乗った話じゃないか。」
今にも逆上して何を言い出すか判らない状況になっている磯山の様子に、まずは磯山を懐柔するのが先決と思った浅川は、なだめるように磯山に話しかけるのだった。
「まだ、最悪の事態になったとは限らないですよ。まだ、僕の力で何とか収めることが出来るかもしれない。ここはひとつ、一旦僕にすべてのことを任せて貰えませんか。」
「何だって。この状況を収拾する方法があるって言うのか。そうか、今はお前だけが頼りなんだ。とにかく宜しく頼む。あんなものが本当に社内倫理委員会に渡ったら俺は一貫の終わりだ。」
「大丈夫ですよとは、まだ言えませんが、ちょっと僕に時間を下さい。それまでは、いいですか。何も動かないで下さい。下手に動けば、どんどん事態は悪くなりますよ。」
最後に磯山に動きを封じる釘を差すのを忘れない浅川だった。
浩子のほうは、アパートに戻ると、脅迫者からの新たな手紙を発見する。すぐさま中身をあらためた浩子だったが、意外にも内容は、浩子が浅川から言われて書かされた申し出を受け入れるというものだった。但し、金の支払いは明日夕刻、同じロッカーでとあって、鍵も同封されていた。すぐさま、浩子は浅川から渡されていた携帯電話を使って、脅迫者からの指示を浅川にメールで連絡する。浅川からは、俺の指示どおり動けとだけ返事が来たのだった。
次の日、いつものように出社した浩子だったが、始業時間になるや、課長の磯山と浅川は「ちょっと所用があるから。」と断わって、二人して出掛けると言い出し、不審な顔で二人を見送ったのだった。いつものように磯山への郵便物の仕分けを始めた浩子だったが、乱雑に積まれていた仕掛かり書類の束の一番下に、封を切った封筒が斜めにはみ出ているのを見てしまう。一見何でもない普通のビジネス封筒のようだったが、裏の封をした部分に浩子は「極」という文字の一部分を見てしまい、気に掛かって周りの誰にも気づかれないように、その封筒をそっと引き出したのだった。課長と課長代理の秘書役をやらされている浩子が、磯山の机の上の書類を整理するのは不自然ではない。それでも、浩子は注意深く、さりげない風を装った。浩子には何かしら気に掛かる虫の知らせといった直感があったのだ。他の書類と紛れるように重ねて自分の席に戻り、封筒を盗み見ると、「極」という文字は、「極秘」という封印の判子だった。差出人は、コーポレート人事企画部とある。既に封は切られているので、一度は磯山が内容を確かめた風だった。浩子はその中身を確かめる為に封筒を他の書類と一緒に抱えて、事務所を出ると、女史トイレの個室に急いだ。
「・・・。という状況の中、新設されるサウジアラビア駐在事務所の駐在員を急遽、選定することとなり、・・・・適任者の推挙をお願い致したく、・・・・」
人事部から送られてきた派遣人員推薦願いだった。しかも、希望者の期待出来ない中東の新規事務所派遣である。磯山の管轄する部署は、ただでさえ、人数の少ない人材的には余裕のない職場である。通常なら、丁重に断わりの返事を出すところだろう。磯山もそのつもりでちらっとだけ文面を読んだのかもしれなかった。
浩子は封筒に書面を慎重に戻すと、何食わぬ顔で磯山の席に戻り、机の上を整理する振りをしながら、封筒を元の場所にそっと戻す。
磯山と浅川がやっと戻ってきたのは、もうお昼過ぎだった。浅川はさっと自分の席に戻り、磯山が静かに浩子のほうへ近づいてきて、耳元で周りを憚るようなひそひそ声で浩子に囁いた。
「ちょっとだけ、奥の会議室に来てくれないか。」
周りに聞かれたくない内容の会議の時などに使う、例の閉ざされた部屋になっている会議室だ。磯山と二人きりになるのだが、まさか、会議室の外は大勢の社員が居る中でのことだ。会議室の中で、磯山が襲い掛かってくるとは思えなかった。
「判りました。」
軽く頷くように合図すると、磯山の後をゆっくり歩いていった。ちらっと浅川のほうをみるが、態となのか顔を伏せていて、表情は見えない。
「申し訳ないが、内側から鍵を掛けておいてくれないか。」
会議室に入るなり磯山に言われて、浩子は一瞬不安になる。が、いざとなったら大声を挙げればいいと思い、内側からドアをロックする。
磯山は会議室の一番奥へ入っていく。話し声をドア越しに聞かれたくないようだった。浩子が磯山に少し近づくのを見て、磯山は背広の内ポケットから分厚い封筒を取り出し、テーブルの角に置くや、テーブルの脇の床に膝を付いて頭を下げた。土下座の格好だった。磯山は浩子に向かって、呻くように小声で話し出した。
「桂木君。ここに100万円ある。済まんが、これですべて無かったことにしてほしい。この通りだ。もう二度と、君の身体に触れたり、変なことをしようとしたりしないから。頼むから、全て無かったことにしてほしい。君にしたことは心から謝るから、どうか・・・。」
突然の磯山の許し請いに、浩子は戸惑いながら、封筒に手を伸ばす。封をしていないその封筒の中に確かに100万円はありそうな札束が見て取れた。
(これをあの脅迫者に渡せば、自由になれる・・・。)
この取引きも悪くはない、そう思いかけた浩子だったが、ふと、この取引きでまったく損をしない男の存在に気づいた。
「課長は社内倫理委員会のことを仰ってるのですね。・・・。100万円だけでは、この取引きには応じかねます。」
「何だって・・・。100万じゃ足りないというのか。」
100万円というのは、磯山が浅川から先ほど教えられた額だった。更には浅川は、浩子がヤクザか何かに写真で脅されているようだと磯山に教えたのだ。浩子のことなら何でも言う通りにさせることは出来るが、第三者となると自分ではどうにもならないと浅川は言うのだった。そこで持ちかけられたのが、浩子の代わりに脅迫者からの要求の金を支払ってやるというものだった。それを引き換え条件に社内倫理委員会へあの写真を提出するのを止めて貰うように土下座でもして頼み込めというのだった。磯山にはそれに従う他、為す術はなかった。幸か不幸か、磯山には前の妻から離婚を言い渡された際に、先方の親から密かに渡された100万円があった。言わば手切れ金のようなものだ。磯山は、妻の翻意がままならぬことを知り、泣く泣くその金を受け取って別れたのだった。
浅川から、どうも脅迫者はまだ磯山のことを知らないようだとも教えられた。浩子のことは手紙をアパートに出すくらい調べ上げているようで、恐らく退社時に後をつけられたのだろうと言っていた。写真に一緒に写った強姦者の男がまさか上司の課長だとは思いもしていないようだと言うのだ。
「もし、上司の課長だと知っていたら、当然、脅迫は貴方のほうにするでしょうからね。」
事も無げに浅川はそう言いきったのだ。言われてみれば、頷ける話しではあった。それなので、当分、浩子との関係を悟られないように、一切浩子に近づいてはならないと釘を刺されたのだ。
それで、磯山も100万円を差し出して、浩子の許しを得られれば、社内でも社外でも一応安全圏に逃げ込めると判断したのだった。磯山は銀行で金を下ろしてくるや、浅川と会社に戻ってきて、浩子に土下座をして頼み込んだのだ。これですべてが丸く収まる筈だった。
「これ以上の金が欲しいというのか。脅されているのは100万円じゃなかったのか。・・・。そうか、慰謝料が欲しいというのだな。しかし、俺だって、そんなに金を持っている訳じゃない。」
「違います。あなたには、私に詫びる以上、私の言うことを聞いてもらう必要があります。」
「な、何をしろというんだ、いったい。・・・。」
浩子は床から顔を上げて自分を見上げている磯山を睨みつけるようにして言い放った。
「課長のところに、サウジアラビア駐在所の派遣員の候補推挙依頼が来ているでしょ。あれに浅川を応募して欲しいのです。」
「何だって・・・。」
磯山は突然の名前を聞かされて、唖然としてしまった。しかし、少し冷静になってくると、磯山にも状況が次第に飲み込めてきた。
以前から浩子は何か弱みを浅川に握られているのだろうとは思っていた。それが何なのかは全く知らされてはいない。しかし、ここで浅川を一挙に遠方へ左遷させてしまえば、浩子は自由になれると考えているのだと磯山は悟った。
「し、しかし、・・・。そんなことが知れたら。」
「知れる筈はないじゃないですか。こういうことは極秘に進められるものでしょ。上からどうしてもと押し切られて、守りきれなかったと言えばいいことでしょ。」
浩子は冷たく言い切る。
「どうするか、考える余地は無いのじゃないかしら。」
そう言うと、磯山が置いた札束の封筒を自分のポーチに仕舞うと平然と会議室を出ていく浩子だった。
浩子に続いて会議室を出た磯山は、顔面が蒼白になっていた。ちらっと自分が任命した課長代理である浅川のほうを盗み見る。ある意味では自分の窮地を救う手助けをしてくれたとも言える。その浅川を裏切るように、今自分の部下である桂木浩子から言い渡されてしまったのだ。しかも浩子が言うように、自分を守るには選択肢は他にないのだった。
その日の夕刻、前日と同じように駅のコインロッカーへ向かうと、誰も見ていないことを確認して金の入った封筒を奥にしまい、しっかり鍵を掛けてから、その鍵をロッカーの上へそっと置く。
そして脅迫者に指示された通り、いつもの時間の電車に乗る。脅迫者は、浩子が電車に乗り込んだことを遠くから確認して、ロッカーから金を引き出すのだろうと思った。が、それがまさか浅川なのだとは思いもしなかった。
その日、自分のマンションに戻った磯山は、冷静になって、今後、浩子を思うがまま蹂躙することが最早出来ないのだとすれば、浅川は自分に取って価値がないことに気づいていた。浅川から得られるとしたら、せいぜいが浩子の身に着けていた下着とか、恥かしい写真程度だろう。それで自分を慰めるしかないのだろうと磯山は思った。それなら、自分の保身を確実にする為に、いっそのこと、浅川には居なくなってもらうしかないと考え始めていた。
そして、首尾よくまんまと100万円の金を手にした浅川のほうは、自分の身の置き所が取り沙汰されているとも知らず、満悦の笑みを浮かべているのだった。磯山には当面、浩子の身体を自由にするのを諦めさせることが出来たが、長くは続かないだろうと観ていた。所詮、時間の問題で、自分の方に迫ってくるに違いないと考えていた。浅川は浩子に書かせた社内倫理委員会宛の通報告発を、自分が浩子に代わって出すことを決意していたのだった。
一週間後の月初めの日は、一箇月後に控えた新しい期の人事異動の内示発表の日に当たっていた。突然、人事部から人事担当役員室に出頭を命じられた浅川は、いよいよ自分が正式に課長に昇進したことを確信した。磯山の社内セクシャルハラスメントを証拠のビデオとともに送りつけた浅川は、その内情を訴えた手紙の中で、それとなく、磯山が業務を実質、直属の部下である浅川に全て押し付けていると、暗に業務を掌握しているのは浅川自身であるかのように仄めかしておいたのだ。磯山が処分されれば、それを引き継げるのは自分しか居ないと印象付けさせておいたのだった。
人事担当役員が、部屋にやってきて、晴れがましくしている浅川に告げたのは、浅川にとっては青天の霹靂の内容だった。
「新規発足のサウジアラビア駐在事務所所員を命じる。尚、正規赴任に先立ち、本日付けを持って、海外営業本部付きに配転し、赴任の準備と事前研修を行うこと。以上。」
人事の担当役員による発令は、発令書を読み上げただけの簡単なものだった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。いったい、どういうことです。磯山課長からは、何も聞いてませんよ。そ、そんなこと、突然、言われたって。」
「あ、磯山君だったら、もう居ないよ。彼は今日付けで、関連会社のテクノ配送サービスに配転になっているから。何でも、課長職も降格になったみたいだね。あまり細かい事情は話せないのだが。」
「うっ、・・・。」
喰ってかかる相手は、自分の密かな画策で既に、身分剥奪の上、更迭になっていることを知らされたのだった。
うなだれて、役員室を出る浅川に代わって部屋へ入っていったのは、桂木浩子なのだった。磯山の裏切りのことで頭がいっぱいになっていた浅川はそのことにも気づかないのだった。
「桂木浩子君。技術情報サポート室の課長代理を命じる。おめでとう。まあ、ここは課長職が不在になるので、実質、君が課長だ。実は君はクライアントのさる人から評判がよくてね。急な人事で、内部事情がつかめないところ、客先の評判を人事であたっていたら、君を強力に推挙する声があってね。抜擢人事だよ。ま、頑張りたまえ。」
「は、あ、ありがとう・・・、ございます。」
浩子にとっても、その日の任命は晴天の霹靂の出来事だった。
事務所に戻ると、既に磯山と浅川の机は庶務第二課の作業員によって運びだされるところだった。代わりに真新しい机が浩子の為に用意されていた。新しい席に着いた浩子は、机上の電話機を取り上げた。
「あ、もしもし。部長の樫山さんをお願い致します。あ、樫山さんですか。技術情報サービス室の桂木でございます。・・・、は、こちらもご無沙汰しております。あ、この度、課長代理としてこのサービス室を預かることになりまして、・・・。はい、そうです。それでまずはご挨拶をと、思いまして・・・。あ、そうですか、それはちょうど良かった。是非伺わせていただきます。・・・。え、私、独りで参ります。他に任せられる者もおりませんから。・・・。え、是非。それではその時間に、駅で。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
久々の樫山との電話に浩子ははずんでいた。さっき机の抽斗にしまった、自分のポーチを抽斗を開けて、外には出さずに抽斗の中で開いた。奥には綿のロープと、浅川に買わされたバイブが入っているのが見える。それを確認すると、樫山との久々の逢瀬を想像して浩子は思わずにっこりと微笑むのだった。
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