妄想小説
牝豚狩り
第七章 忍び寄る魔の手
その７
池脇真緒はその時、高校女子剣道の県大会予選からの帰り道の途上だった。この試合は次の全国大会出場権を掛けた決勝戦の前哨戦にあたる。真緒は個人の部で、順当に勝ち進んでいた。剣道は中学へ入った時から始めたものだったが、高校に入ってから、めきめきと腕を上げていて、在籍する高校の運動部の誰からも期待されていた。
父親を早くに亡くし、母親の腕ひとつで育てられてきた真緒には、中学、高校を通じての剣道部顧問の先生が父親代わりだった。その顧問について、一心不乱に頑張ってきたと言ってもよかった。が、母親のほうは、剣道に打ち込むことについて、冷ややかだった。
真緒は昨夜の母親との会話を思い出していた。母の幸江は、迫っている最終学年に向けて早く受験モードに入るように何度も説得していた。受験高である真緒の高校では、２年の秋で退部し、あとは受験に打ち込む部員も少なくはなかった。しかし、真緒は目標である全国大会出場の夢をまだ実現していなかった。あと一歩のところで、前回も敗退したのだ。真緒は今度の大会に掛けていた。それを逃すと、後は３年に上がった春の春季大会に挑まねばならない。母親はそれには強行に反対するであろうことは目に見えていた。だからこそ、今回あと一回、県大会決勝に勝って、全国大会出場を果たさなければならない。
このところ、毎晩のように、母親との話題は、剣道をあと少しだけ続けるか、剣道部を辞めて受験体制に入るかの押し問答だった。真緒は今日の準決勝での勝利の報告が、母親を説得する好材料になると信じていた。真緒は剣道着などを詰めた大きな袋を竹刀の先に通して背負いながら、稽古着の袴の裾を跳ね上げるようにして、家の門を入っていった。
真緒にはその姿を遠方から双眼鏡で見つめている視線には気づいていなかった。覗いていた男は、盗聴器のスイッチをいれ、モニタ用のイアホンを耳にあてた。イアホンからは、先日来、仕掛けておいた盗聴マイクから、先に帰っていた弟と、真緒の間の弾んだ会話が聞こえてきていた。
男は、池脇真緒を暫く前からマークし続けていた。真緒はターゲットとしては申し分ない腕前を持っていた。下見に出かけた予選大会の名簿で、剣道七段の腕前であることも調べがついていた。試合を遠目から観察して、愛らしい美貌だけでなく、剣道家らしい凛々しさを兼ね備えていることも男の求めている条件に合った。
男は、前回の栗原瞳の件で、あまり知名度が高すぎるのは危険であると思い始めていた。出来れば世間に知られていないほうが、イベントの後始末が楽でいいと思い知らされた。有名人だと、客が勝手に獲物にアクセスしてしまうことを誘発しやすく、それはあらぬところから足がついてしまう危険性を孕んでいるのだ。
初々しい高校生、だが、剣道の腕前は普通の大人にひけをとらない。全国大会出場より少し下ぐらいのランク。従って、地方紙に載るぎりぎりのところ。これが男のねらい目だった。全国大会の上位クラスになると、地方紙どころか全国紙にも顔が載る場合がある。そうなると、客のトラブルを誘発しかねないし、捜査の網に引っ掛かり易くなるのだ。
獲物の事前の身辺調査も大事な要素だった。なにしろ、拉致、監禁して数日間は行方不明になって貰わねばならない。その間に、失踪届を出されて、大々的に捜索されては都合が悪い。そうはならない状況を作り上げておかねばならないのだ。その為には事前に獲物となるターゲットの生活状況を知っておかねばならないのだ。
国仲や内田の時のような独身で一人暮らしの場合は、処置もしやすい。捕えてから周りの状況を本人に喋らせて、その内容から辻褄合わせをするのもそれほど難しくはない。しかし、親の居る高校生、それも娘となると、その場の取り繕いでは難しいことは容易に予想される。
男は既に数日前から盗聴器を仕掛け、父親の居ない母子家庭であること。兄弟は中学生の弟ひとりきりで、昼間は母親も仕事で家を空けて不在であることなどを調べ上げていた。
今度の全国大会への出場を掛けた決勝の試合の日から高校入試験の期間に入り、１週間ほどの連続の休みに入ることも重要な情報だった。
男は、拉致を全国大会へ向けての県大会決勝の試合のある土曜日と決めていた。
決勝の当日、男はすり替え用のスポーツドリンクのペットボトルを用意した。中には無水アルコールが混入させてある。即効性があり、目立つような副作用もない。男は事前の調査で、真緒が試合当日は水分補給の為にスポーツドリンクを用意し、それも特定銘柄のものにこだわっていることまで調べ上げていたのだ。
すり替えは、身体のウォーミングアップとして午前中の仲間うちで行う乱取り戦の後、午後の試合までの休憩時間の直前に行おうと計画を立てていた。
試合は、進学校である真緒の高校と同じ街の中にある県立商業高校の体育館を会場にしていた。各校からPTA やOB が多数駆けつけてくる。その中に不審者と思われないように紛れ込むのは難しいことではなかった。
事前に調べで、乱取り練習は本会場の体育館からは中庭を隔てた校舎敷地の奥にある武道場で行われることは判っていた。そこで練習を終えたのち、選手控え室のある、体育館そばの教室に戻ってくるところを狙う手筈だ。
同じ剣道部の中でも、全国大会進出を狙える唯一の候補である真緒は乱取り稽古でも、いつも最後まで残っている。相手をするのは、顧問の教師だった。
最後の調整を終えると、真緒は顧問に一礼をして武道場で別れた。走って仲間の居る選手控え室へ向かう。その真緒が渡り廊下を横切ろうとした時、ふいに物陰から出てきた男ともろにぶつかったのだ。運動神経のいい真緒は転がることは無かったが、手にしていたバッグと稽古着を入れる布袋を取り落としてしまった。
「ごめん、ごめん。突然飛び出してしまって・・・。よく観なかったものだから。」
そう謝る振りをしながら、男は真緒に、落としていたバッグを拾い上げて、真緒のほうに差し出す。
「いえ、私のほうこそ、急いでいて、よく見ていなかったんです。」
真緒も礼儀正しく頭を下げる。男にとって、バッグの外ポケットに突っ込んであるペットボトルを差し替えるのは雑作無かった。背広の内ポケットからさっと持ってきたボトルを抜き取り、真緒に背を向けた状態で、差し替えて、真緒のものを内ポケットに戻すだけのことだ。
「今日の試合に出るのかな。頑張ってね。」
男はあまり真緒の顔を見ないようにしてその場を立ち去る。勿論顔をあまり覚えられないようにする為だ。なにも疑うことを知らない真緒は応援してくれたことに心を良くし。「ありがとうございます。」とだけ後姿の男に向かって元気よく声を掛けて、選手控え室へ急いだ。
足元の床がふらつくように感じたのは、決勝戦がいざ始まってからだった。いつものような調子が出ない。いや、それ以上に不調だ。相手の動きを見てとろうとするが、集中力が定まらない。真緒は、まさかそれが、男に飲まされた無水アルコールのせいだとは露も知らない。
「いっぽーん。はい、それまで。」
真緒の敗退を告げる審判の声が高らかに響き渡った。
男には、策略の作戦上、どうしても真緒には敗退してもらう必要があったのだ。試合予測は五分五分か、ちょっと真緒の方に分があった。それで念を入れて薬の力を借りることにしたのだ。
全国大会出場権を逃した真緒に、仲間は同情して、励ましの声を掛けた後は、真緒を独りにした。何となく雰囲気がそうさせたのだが、男にはそれも計算のうちだった。
真緒は独りで、自宅へ向かう閑静な住宅街の小道を登っていた。丘の上に小さな公園があり、その脇を抜けて、丘の頂上を今度は少し下っていったところに真緒の家がある。もう家までほんの少しのところだった。後ろからすたすたと駆け上がって真緒を追ってくる足音を聞いたのは公園の入り口に差し掛かったところだった。
「池脇さ～ん。池脇真緒さ～ん。」
名前を呼ばれて、真緒は立ち止まって振り返る。きざな薄い色のサングラスを着けた男が、息をはあはあ言わせながら、近寄ってくるところだった。
「池脇さん、池脇真緒さん、ですよね。××高校、剣道部の・・・。」
真緒は不審そうな顔で男を見る。
「ええ、そうですけど。」
「今日の試合、残念でした。あと、ちょっとでしたよね。・・・あ、私、××新聞のスポーツ記者なんですけど。」
男は胸のポケットから、ちょっと皺くちゃになった名刺を出して、真緒に差し出す。（××新聞スポーツ部 記者 何某）と書いてある。新聞社の記者に声をかけられるのは初めてのことだ。
「あの、実は・・・、今度の全国大会で、特別推薦枠があるのをご存知でしたか。・・・。ああ、あまり知られていないので無理もないのですが。実は、県大会の最終決勝での敗退者の中から、一人だけ、推薦枠で全国大会へ出場させる枠っていうのがあるんですよ。それは、県の教育委員会の運動部の方の推薦で決まるんですが、それには、地元の新聞社のスポーツ記者の意見も結構反映されるんですよ。それでちょっとお話が伺いたくて。」
真緒は突然降って湧いた話に、戸惑いながらも、つい心が傾いてゆくのを抑えられない。
「もし、よろしければ、そこの公園でいいですから、少しだけお話伺わせてもらえませんか。」
公園はすぐ近くの入り口から数十段だけ石段を上がった上にある。もう夕暮れ時で、人影はなさそうだったが、真緒は全く疑っていなかった。
武道をやっている者にとって、身構えていれば、攻撃をうまく交わし、身を守ることは意外に出来るものである。が、全く予想していない相手に不意討ちを食わされた場合は、別だ。
人寂しい公園の隅にあるベンチを薦められて、荷物を置こうとした真緒に、男は横腹めがけて一撃を与えた。
「ううっ・・・。」
苦しげに腹を抑える真緒に、男はすかさずポケットから取り出したハンカチを真緒の口に当て、うしろから抑え込む。暫く真緒はもがいていたが、直にぐったりとなった。
動かなくなった真緒を公園のベンチへ寝かすと、すぐ裏に停めておいたワゴン車へ布袋を取りに戻る。真緒の身体をすっぽり蔽ってしまう為だ。万が一にも拉致される真緒の姿を目撃されてはならない。車から出る時に、男は街の清掃業者の上っ張りと帽子を纏う。公園から大きな袋を担ぎ下ろす男の姿は、公園のごみを回収する業者にしか見えない。
こうして、池脇真緒の拉致は完遂されたのだった。
次へ 先頭へ