260バレー選手

妄想小説

牝豚狩り



第六章 栗原瞳の悲劇

  その6



 栗原瞳は、サングラスを掛け、大きな帽子を目深に被って、関西国際空港の搭乗ゲートの前に立っていた。手には手荷物のカートに載せられた小さな旅行鞄ひとつだけを挽いている。

 身に着けた衣服は勿論、サングラスも帽子も、手にしたカートの荷物さえも全て奴等によって予め用意されていたものだった。
 搭乗手続きが始まるまでの時間、瞳は出発ロビーの片隅のソファに座って時が来るのを待っていた。目をつぶると、ここまでやって来た経緯がすぐに思い出されてくる。

 瞳が我に返った時、窮屈な布袋に包まれてベッドの上に寝かされていた。少しもがくと簡単に袋の口が開いた。そこは、何処か場所は判らなかったが、モーテルになっているラブホテルの一室のベッドの上だった。ベッドサイドのテーブルの上に何やら鍵のようなものがある。すぐに自分の両手首を背中で繋いでいる手錠の鍵だろうと思った。ベッドサイドの大きな鏡に裸の背中を映しながら、その鍵を使って何とか手錠を解いた。衣服は一切身につけていない全裸状態だったが、傍らに旅行鞄があって、服は下着を含めて一揃え、全て用意してあった。
 鞄には書類ばさみに挟まれた雑多な書類がまとめてあって、その一番上は手紙になっていた。
 どういう経緯で用意されたものかわからない衣服を身体に通すのは気持ち悪かったが、瞳は丸裸で居る訳にもゆかない。何も考えないことにして身に着けてからベッドサイドのソファに腰をおろし、書類束の一番上の手紙を読み始めた。それはワープロで筆跡がわからないように書かれた置き手紙だった。

 「柳沢監督へ

 突然、姿を消し、皆様に大変な騒ぎの迷惑を掛けてしまい、大変申し訳なく思っています。でも、あの時、私はもう限界でした。あんな状態のまま、マスコミの前に出ることにはどうしても我慢が出来ない状態でした。
 幸い、私によくしてくださる方がいて、あの日迎えにきてくれていたのです。それで、皆様には迷惑がかかるとは思いながら、その方の好意に甘え、あの場所から姿を消したのです。
 その方との間には週刊誌を始め、いろいろ騒動を起こしているのは知っております。でも、今はもうその関係も清算済みです。
 ただ、気持ちの整理がまだついておらず、今暫く、皆様の前へ出る勇気がつきません。勝手で申し訳ないのですが、選手としての生活からしばし離れ、静養させていただきたくお願い申し上げます。
 マスコミもまだ暫くはうるさいようですので、暫くは日本から離れることに致します。選手生活については、引退を考えておりますが、そのことは後日日本に戻った際に、相談させていただきたく思っております。

 皆様にもよろしくお伝えくださいますよう、勝手ながらお願い申し上げます。 栗原瞳   」

 始めは何のことかさっぱり意味が判らなかった。が、柳沢監督へ宛てた封筒が添えられ、切手まで貼られていて、いつでも投函できる用意がされていた。
 束の下からは、今晩発つ、インドネシアバリ島行きの航空券と、現地のリゾートホテルの予約受け付け案内、そして三百万円の旅行小切手と現金百万円が出てきた。

 更に書類束の下からは、三日前に発行されたらしいスクープ写真週刊誌、三日間の新聞記事の束などが出てきて、瞳に帰国後、今まで世間ではどう栗原瞳について憶測がされていたかが判るようになっていた。

 (つまりはこれを投函して、海外へ暫く行っていろということか・・・。)
 今の瞳にはこの手紙のシナリオ通りに事を済ませるしか方法はないと悟った。
 (いや、そうではないのだ。私は拉致されて、監禁され、その挙句、変な「牝豚狩り」と称する異常なイベントの犠牲者にされたのだ。)そんなことを申し立てて警察へ行ったところで、信じて貰えるとは思えなかった。
 よしんば、信じてもらえたとしても、今度は世間からどんなことを想像され、どんな風に思われるか、それはそれで辛い立場に立たされるのだ。
 (あの空白の三日間は、試合に疲れた一選手が気紛れを起こして、かりそめの恋人と失踪しただけのこととしてしまえばそれで済む。そういう事なのだ。)瞳はそう思い込むようにしようと決心したのだった。

 バレーボール選手としての生活に、まだ未練はあった。しかし、傷ついた心のまま、すぐさまコートに立てる自信もなかったし、世間やチームが受け入れてくれるかもわからなかった。幸い、世界選手権予選に敗退してしまったので、当分、大きな試合は巡ってこない。結論は焦って出す必要もなかった。

 搭乗時間が迫ってきて、瞳はサングラスをしたまま搭乗ゲートへ向かう準備を始めた。ゲートへ向かう前に、ロビーの隅に用意されていた郵便投函口へ監督へ宛てた手紙を投函するのを忘れなかった。


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