妄想小説
牝豚狩り
第三章 三箇月前
その9
殆ど崖に近い急斜面の坂を登る由紀には、自分がそこを両腕を丸太に拘束されたまま駆け下りてきたことが殆ど信じられないほどだった。しかし、その時、由紀も必死だったのだ。
なんとか林道まで這い上がると、樹に手錠で繋がれた男がまだ蹲っているのが見えた。由紀が近づいていくと、男はうろたえたような目つきで由紀のほうを見上げた。手錠の拘束から何とか脱しようともがいた形跡があったが、どうにも成らなかったようだ。男は疲れきっていた。もう一人と戦うのに、この男に騒がれては邪魔になると思い、由紀は男の近くにしゃがみこみ、男の荷物からハンカチを取り出してそれを口の中に押し込み、縄で上から頑丈に猿轡をかませた。そうしておいてから男が背負っていたリュックの中身をぶちまけ、男に頭からそれを被せて、口の紐をしっかり縛り付けて目隠しにした。口を封じ、視界を遮ってしまうと、もはや男は観念したようで、じっとして動かなくなった。
そうしておいて、由紀はもう一人のハンターを求めて、どちらへ向かったものかと思案していた。二人の男と格闘するのにもう相当の時間が経っていた。その間、三人目の男には全く出遭っていない。向こうのほうでも探し回っているに違いなかった。由紀は相手の心理を予想してみた。
(これだけの時間、他のハンターも由紀の姿も見当たらないことから、二人のハンターのどちらかが先に由紀を見つけて、捕らえたと考えるほうがもっともらしい。それならば、無駄に歩き回らないで、最初に出発した集合場所の近くに戻っているのではないだろうか。)
それが由紀が出した結論だった。由紀は最初に必死で走ってきた時の記憶を辿りながら、最初の場所を目指して用心深く注意しながら進んでいった。ゲームがスタートされた広場に下りていく最後の峠の上まで辿り着いた由紀は、相手に気づかれないように注意しながら様子を窺った。注意深く峠の角から首を出し、坂の下の広場を覗く。果たして男が広場の隅に腰を掛けて煙草を吸っているのが見えた。まだこちらには全く気づいていない。
由紀は一計を案じた。とにかく相手を油断させなければならない。手が自由になっていることを気づかせないほうがいいだろうと由紀は考えた。もともと材木を切り出す製材所があったところらしく、あちこちに大小さまざまな丸太が転がっている。それらの中から、由紀が最初に背負わされたのに似通った大きさの丸太を探し出す。背負ったリュックの中にはロープが入っている。それを使ってまだ縛られているように偽装するのは、それほど難しくはなさそうだった。問題はどうやって最後に仕留めるかだ。素手対素手ならば、空手で相手を倒す自信はあった。問題は男が何かの武器を手にしている場合だ。
由紀は最初に首謀者らしき男が三人の客に武器について説明していたシーンを思い起こしていた。
(あの時、どんな武器があっただろうか。どんな武器を男が手にしていた場合危険だろうか。)
エアガンは、こちらが自由に走り回れる状態ならば、殆ど問題ないように思えた。動き回っている相手を素人が当てられるものではない。投網などで身体の自由を奪われるのが危険だが、手足が自由に動かせる今となっては、投網を避けるのもさほど難しくはない。問題があるとすれば、スタンガンかもしれない。万が一組み合いになった時、相手からこれを使われてしまうと、相当なダメージを受けるのは間違いない。
(それならば、こちらが先にこれを使うしかない・・・。)
由紀は男から奪ったリュックからスタンガンを取り出し、胸のポケットに仕舞い込んだ。それから、選んでおいた丸太を背中に背負うと、両手に縄を軽く巻いてカムフラージュする。一見縛られたままに見える筈だ。
準備が整うと、広場の男からは死角になっている峠の陰で、一度深呼吸をして息を整える。
(やるしかないのだ。)由紀は自分にそう言い聞かせた。
「助けてえ~っ。」
一度大きく叫び声をあげてから、一瞬待った後、丸太を背負ったまま、峠の崖を駆け下りる。一心不乱に坂の下の男の存在には気づいていない振りを装いながら、走り続ける。男まで20mほど近づいた時に、初めて男の存在に気づいたように突然立ち止まり、後ずさりをする。
「や、やめて。来ないで・・・。」
恐怖に怯えた由紀の表情が、男の嗜虐性をくすぐる。突然現れた幸運に男はもう興奮している。逃して他のハンターに仕留められてしまったと諦めていた獲物が、向こうから突然現れたのだ。ルールでは、一旦捕らえてしまえば、他のハンターは手出しが出来ない。今、ここで牝豚を捕らえてしまえば、男のものになるのだ。
男はリュックからさっと、投網を取り出し始めた。それでも視線は由紀のほうから油断なく離さない。由紀もタイミングを見計らっていた。万が一投網に掛かってしまったら、とても危険だ。だが、男に油断させ、ある程度まで近づいていなければならない。
男が投網を投げる準備で網の束に視線を落とした一瞬が、一番の狙いどころだった。由紀は両手の縄を放ち、背中の丸太を後ろに投げ飛ばすと、一気に男のほうに踊りかかった。
男は突然獲物が襲いかかってきたのに慌てていた。が、今までの男たちと違って、武道の心得があるようだった。由紀が狙ってきたみぞおちへの一撃をうまく網の束で受け止めると、身を横に転がすようにして受身で交わした。
「お、お前。何時の間に・・・。」
既に男は体勢を立て直して構えていた。由紀も空手の構えを取る。男の構え方は、空手の心得があることを物語っていた。腕のほどはわからない。
由紀は十分間合いを取ったのち、二度目の突きを入れる。男はさっと横へ交わしたかと思うと、回し蹴りを放ってきた。由紀もすかさずそれを交わす。由紀の下半身が大きく開いて、スカートから下着が丸見えになる。が、そんなことは構っていられない。
三度目の突きは手応えがあった。が、由紀も足を取られ体勢が崩れる。必死に男の肩を捕らえ、押さえ込みながら、地面に二人して倒れ込む。
咄嗟に由紀はポケットを探り、スタンガンを掴み出していた。無我夢中で男の首筋に当てる。
カチンという空しい音がしたのを由紀は聞いた。空振りだったのだ。その時、男が同じようにポケットからスタンガンを取り出しているのに気づかなかった。
バチバチという火花とともに、由紀の男を掴んでいた腕に衝撃が走った。腕の感覚が無くなってしまっている。続け様に男は由紀の足首にスタンガンを当ててきた。腕の痛さに咄嗟には動けなかった。
バチバチっという音が再びして、由紀は意識がなくなりそうになる。激しい痛みが左足に走り、立っていられない。崩れ落ちる由紀の下腹に男の強烈な蹴りが襲ってきた。それをまともに食らってしまい、腹を抑えて倒れ込む。男は更に倒れ込んでいる由紀のもう一方の腕を捩じ上げてきた。反撃がすぐには出来ない。その隙に男は由紀のもう一方の腕にも3発目のスタンガンの衝撃を浴びせたのだった。
痺れて両手が使い物にならない。足首にも当てたれて立つことさえ出来ない。こうなると、由紀を捕らえるのは赤子の手を捻るようなものだった。男が腰から外した手錠で難なく後ろ手に拘束されてしまう。更には足首にもロープが巻かれ、足の自由も奪われてしまう。あっという間の出来事だった。
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