妄想小説
牝豚狩り
第三章 三箇月前
その7
空手を長く経験している由紀には、その一撃が致命傷まではいっておらず、軽い脳震盪を起こして倒れているのはすぐに分かった。どれくらいで息を吹き返すかは分からない。一刻の猶予もならなかった。男はズボンのベルトに手錠を挟みこんでいるのにすぐ気づいた。丸太で固定された腕はそれほど自由にはならない。動かせるのは手首の先ぐらいしかない。それでも由紀は背中の丸太をうまく操って、男の腰に手を伸ばしベルトから手錠を外すと、片側を男の片方の手首に掛ける。すぐそばに手頃な大きさの樹があったのでそこまで男を引き摺る。一遍には片手しか使えないので、男を引き摺るのは楽ではなかった。しかし由紀も必死だった。樹のすぐ傍に男の手を引き込むと、幹の周りをぐるっと回って、もう一方の手首を捉え、後ろ手にもう片方の手錠を掛けてしまう。運良く手錠を掛け終えるまで、男は意識を戻さなかった。これで、男はすぐには反撃出来ない筈だ。息を吹き返したら、もう一度丸太で殴って気絶させればいい。
由紀はまず、手錠の鍵を奪わねばならなかった。手錠を外されたら、再び男のほうが優勢な立場に戻ってしまうのだ。
不自由な手を伸ばして、男のポケットを探る。しかし、胸のポケットにもズボンのポケットにも鍵は見つからない。由紀は男がしょっているリュックに見当をつけた。肩紐を腰元の留め具のところで外し、男の背中から引き剥がすと、丸太の先の手首だけでなんとか中を探る。鍵をリュックの奥のほうに手応えで見つけだす。男がまだ混濁しているのを確認して、鍵を藪の下に投げ捨てる。リュックの中に由紀の役に立ちそうなものは見当たらない。由紀の両腕を縛りつけている縄を切る為のナイフを探していたのだ。
その時、男が腰に登山ナイフを鞘に入れて差しているのを発見する。急いで男に近づくと、丸太ごと手を伸ばして男の腰を探る。その時、男が意識を取り戻した。
「うううっ、くそっ・・・。」
男はまだ意識が朦朧としているらしかったが、次第に回復してきそうだった。由紀は咄嗟に立ち上がり、今度は少し力を弱めて、もう一撃を男の頭に加える。男は軽いうめき声とともに再び崩れ落ちるように倒れ込んだ。それを確かめてから再び男の腰に手を伸ばし、鞘から登山ナイフを抜き取った。しかし、それですぐに自由になれる訳ではなかった。手の平にナイフを握っているのがやっとで、手首の縄のところまではナイフの刃が届かないのだ。由紀は立ち上がり、耳を澄ます。少し遠くのほうでエアガンが発射される(パーン)という音が続いて二発聞こえた。由紀は次の追っ手が迫っていることを感じ取った。由紀は手にしていたナイフを握ったまま、林道を外れて、道の無い斜面を下へ下へと滑り降りていった。道の無い藪を抜けて斜面を下っていくのに、両腕が丸太に固定されて自由にならないだけでなく、歩みを進めるのに邪魔にもなった。すぐに樹の枝などに引っかかってしまうのだ。それでも由紀は必死で藪の枝を掻き分けながら小走りに坂を駆け下りていった。途中から、身体を斜めに倒して、丸太を杖のように使うことを覚えた。片腕の先を支点にすると案外楽に坂を下れることが分かった。
由紀の頭の上のほうで、再びエアガンが何発も激しく発射される音が聞こえた。もう一人のハンターが、由紀が手錠で繋いだ男を発見したのだろう。それは由紀が近くに居ることをも示しているのだ。
(狩りは三人の競争だと言っていた。それならば、競争相手が減る訳だから、手錠で繋いだ男を自由にしてやることはないだろう。)そう由紀は踏んでいた。
(とにかく、一人ずつでも相手を減らしていかないと、逃げおおせるチャンスはないのだわ。)由紀は適確にそう判断していた。
坂を降りきった先は沢になっていた。山から大水が出た時に流されてきたらしい大きな岩がごろごろしている。その大きな岩のひとつに由紀は屈み込んで身を隠して様子を見ることにする。ナイフはまだ手に握っていたが、どうやってこれを使って手首のロープを切ろうかと考えていた。
(ナイフを何処かに固定して、腕のほうを動かして縄を切るしかない)そう考えていた。が、片方の手首しか使えない状態ではナイフを何処かに固定するのは難しそうだった。
(何処か、樹の裂け目の股でもあれば・・・)
そう考えていた時に、由紀が降りてきた坂の上のほうから藪を踏み分けて近づいてくる物音がしだした。由紀は咄嗟にナイフを岩陰の下に落とし足で石を転がしてとりあえず隠すと、身を屈めて男をやり過ごそうと考えた。由紀は息を殺して、岩陰に潜んで男が近づくのを待った。
(見つかる可能性は五分五分だろうか・・・。)
由紀には天に運を任せるしかなかった。が、ここでも両腕を括りつけられている背中の丸太が邪魔をした。岩の陰から丸太の端が少しだけ覗いてしまっていたのだ。
由紀の隠れている大岩の反対側で砂利を踏みしめる音がする。由紀の心臓が高鳴る。一旦立ち止まったように見えたが、再び歩き出すのが分かる。
(頼むから、気づかずにそのまま通り過ぎて・・・・)
祈るような気持ちで息を止めて待つ由紀だった。
が、次の瞬間、由紀の頭の上にロープが飛んできた。投げ縄だった。先を大きな輪にした縄が由紀の方めがけて投げかけられてきたのだ。由紀は男が潜んでいる自分に気づいていたことを知った。最初の投げ縄からは、上手く由紀の身体を逸らせることが出来た。が、何度も掛かるまで投げ縄が繰り返されるのは間違いなかった。もはや隠れていても無駄だと悟って、由紀は岩陰から走り出た。動いているほうが、少しでも縄に掛かるのを逃れられる可能性が高いと思ったのだ。どうせ潜んでいることはばれてしまっているのだ。
男は由紀の姿を認めて、ほくそ笑んでいた。こんな足場の悪い沢の淵ではそうそう走って逃げ回れるものでもないのだ。
男は失敗したロープを手繰り寄せると今度は慎重に、獲物に狙いを定める。由紀は縄に捕まえられないように何とか沢の間を逃げ回ろうとしていた。が、所詮両手の自由を奪われたまま脚だけで逃げるのは無理があった。しかも、両腕を丸太ごと広げているのは、投げ縄を避けるのにはいかにも都合悪かった。男の次の縄が確実に由紀の片腕を丸太ごと捉えた。振り払おうとする由紀だったが、縄の輪はするするとすぼまって手首のところに絡みついてしまった。こうなると引けば引くほど縄の輪は締まっていってしまう。
男は由紀の腕が掛かった手応えににやりとする。すぐさま、由紀を捕らえたロープの端を自分のズボンのベルトに結びつけると、もう一本の投げ縄を用意し始めた。男は捕らえた最初のロープを繰り、少しずつ由紀を引き寄せながら、もう一本の投げ縄を由紀の頭めがけて投げかける。片方の腕の端を捉えられてしまってからは、もはや投げ縄を逃れるのは不可能に近かった。二本目の投げ縄の輪は、いとも簡単に、そして確実に、由紀の首を捉えた。そのロープの輪が締まって、首に掛かってしまうと、由紀はもはや逃げようとするのを諦めた。男に引かれるままに男の傍に寄ってゆくしかなかった。
男は慎重だった。不用意に由紀に近づいて、最初の男のように丸太の一撃を食らってしまうのを明らかに用心していた。完全に引き寄せる代わりに、由紀の首に掛けたロープの反対側の端を傍の大きな樹の横に張り出している枝の上に投げ上げて通し、由紀をロープで吊ることで自由を奪うことにした。由紀は吊り下げられた樹の枝の下から身動き出来なくなってしまった。
男は用心深く、もう一本投げ縄を用意し、まだ括られてない側の腕にも縄の輪を掛けた。そうして今度は丸太の両端で手首の部分に括りつけた二本の縄共、樹の枝に通して、由紀を今度は丸太の両端で吊り下げるように縄を引いてロープを固定する。これで由紀は完全に磔にされてしまったことになり、もはや丸太を振り回すことも出来なくされてしまった。丸太の端の縄は、由紀が爪先立ちでやっと地面に届くぐらいまで引き上げられてしまっていた。そのことは、有効な足蹴りを封じてしまう効果もあった。
男は由紀の動きを完全に封じてしまったことを確認してから、漸く捕縛した獲物である由紀の身体に近づいてきた。
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