妄想小説
牝豚狩り
第三章 三箇月前
その2
由紀の出発の日までに、由紀の私生活について、詳細が調べ上げられていた。大学を出た後、地方の実家から一人上京し、二年ほど独身寮に入っていた後、一人住まいのアパート暮らしになっていた。
由紀が乗る筈の飛行機の時間まで調べあげられていた。由紀がいつもの巡回パトロールに出たことを外から確認して、由紀が勤める生活安全課の事務所に電話を掛けたのだ。
「こちらタイの現地案内所からの問い合わせで確認をさせて頂いている国内旅行事務所です。ええと、明日、タイへ出発予定の内田由紀さま、居られますでしょうか。・・・、ああ、そうですか。困ったな。ええと、出発便の番号だけでも判れば、あとはこちらで調べられるのですが・・・。えっ、判りますか。ああ、助かります。ええ、便名だけで結構ですよ。はい、タイ航空、PKT008便ですね。はい、助かります。どうも、お世話をおかけしました。失礼します。」
由紀が不在であることを確認しての電話である。一週間ほど留守にするので、まわりの同僚に不在中の居場所や飛行機便などのメモは残してあるだろうことを予測しての電話だった。便名しか聞かないので、不審には思われないし、タイの現地事務所が便名の確認をするなど、如何にもありそうなことである。大会そのものは、警察署全体での業務の一環ではあるが、選手としての派遣は、事務所レベルでは由紀の個人事情である。由紀の事務所での周りの人間が、大会そのものについては詳しくないことも計算に入れてのことであった。
そして、その便の出発時刻から逆算して、由紀がアパートを出るであろう時刻もまず外れることのない予想のうちであった。アジア選手権の日本代表とは言え、公務員の実務外活動である。それほどの贅沢が許される筈もない。由紀は電車を乗り継いで、成田へ向かうのもほぼ間違いなかった。
由紀が大型のスーツケースを乗せてゴムバンドで留めたカートを引き摺りながらアパート前に出てきた時には既にその角の隅に大型リムジンカーを待機させて居た。由紀の姿が認められるや、音も立てずにと思われるほど滑らかにそのリムジンがアパート玄関前に横付けされた。
由紀が、(誰の迎えだろう)と首を傾げてみていると、制服、制帽に白い手袋をつけた運転手が出てきて、帽子を取って由紀に挨拶する。
「内田由紀さんですね。お待ちしておりました。」
「ええっ。」
突然の出来事に、由紀は素っ頓狂な声を挙げる。
「去る方から言い付かっておりまして、空港までお届けするように言われております。」
一公務員の海外遠征試合への出発に、リムジンでの送り迎えなどあり得ないことだった。
「何かの間違い・・・、では。」
「去る方から、内密に迎えにゆくように言い付かっております。・・・、詳しくは存知あげませんが、何とかの倫理規定とか、何かそのようなものがあるのでとか・・・。」
言葉を濁したが、明らかに「公務員倫理規定」のことを言っていると、すぐに由紀はぴんときた。(誰か警察関係者の、それもかなり上のほうの人が、由紀の為に便宜を図ってくれているらしい。)そうすんなり判断した。
大学の代表選手だった頃の華やかな海外遠征の経験のある由紀には、全国優勝を果たし、アジア圏の日本代表として遠征するのに、付き人もなく、独り荷物を手にして旅立たねばならないのは密かに屈辱感もあった。しかし、それは公務員として口に出してはならないことと、自らを戒めていた由紀であった。それだけに、誰だか判らないが、気遣ってくれている人が居るという思いは、由紀の心をくすぐるものがあった。
「その方とは、空港で落ち合えると思います。お名前などはそちらでお聞きになって頂けますでしょうか。私どもは、依頼を受けて運転をするだけの立場ですので・・・。」
「そうなの、・・・。判った。じゃあ、お願いするわ。」
由紀は挽いてきたカートを運転手に預けると、広々とした後部席に乗り込んだ。ドアの窓は防弾ガラスかと思われるような分厚いもので、内側にレースのカーテンが掛かっている。本革製のシートも深々として上品そうだった。初めて乗り込むリムジンの後部席に、ただ感動している由紀だった。
運転手はカート毎スーツケースを受け取ると、リヤトランクに恭しく仕舞い込んで運転席に戻った。
「それでは、参ります。首都高湾岸線を海沿いに向かいますので、それほど混んでは居ないと思います。」
運転手はそれだけ言うと、滑るようにリムジンを発車させた。
リムジンは成田を目指して、海岸沿いの首都高をずっと走っていた。何か話し掛けても殆ど返事を返して来ない運転手に、話し掛けるのも疲れて、由紀は遠くの水平線をずっと眺めていた。
由紀の席からは見えないのだが、運転手の横の助手席には何やら小包ほどの大きさのものが、大きな風呂敷が掛けられて置いてあった。運転手はそれを出すタイミングを見計らっていた。首都高は空いていて、併走する車も殆ど無かった。運転手はそれを確認すると、するりと横の席に置かれた物にかぶせられていた風呂敷を引き剥がした。その下にあったのは鳥篭である。口には錠前が掛けられている。
「あの、すみません。これをしばらく預かっていて貰えませんか。」
運転手は片手でその鳥篭を器用に持ち上げると、後部席に居る由紀のほうへ差し出してきた。後部席は脚が伸ばせるほど広々としているので、由紀は受け取る為には席から身を乗り出すようにしなければならなかった。
「何なの、これ・・・。」
不審な面持ちで鳥篭を受け取る。中にはどう見ても玩具としか思えないような鳥のぬいぐるみと、なにやらスプレー缶のようなものが入っている。由紀が鳥篭を抱えて後部シートに戻ると、運転席と後部座席を隔てている壁から、するするとガラスの仕切りが上がっていった。VIPを乗せた時に、後部座席での話を運転席に聞き取れないようにする為の防音壁らしかった。
防音壁が完全にしっかり閉まってしまう直前に、由紀は篭の中のスプレー缶らしき物の口金の部分になにやら紐が結わえつけてあるのに気づいた。
(何かしら、この紐・・・。)
そう思ってよく見ようと覗き込んだとき、運転席のほうから、その紐が思いっきり強く引かれた。
(ピン)という音がして、篭の中のスプレー缶のような物から何かが外れるような音がした。と思った瞬間から、その缶は(プシュー)という音を立てて、白い煙を吐き出し始めた。そして、するするとその口金に繋がっていた紐が運転席に引かれてしまうと、後部座席との間の仕切りは完全に閉まってしまった。
鳥篭の中の缶からは白い煙がどんどん流れ出ていた。何やら刺激臭のするその気体は、明らかに危険なことを予感させた。
「何なの、これっ。どうしたの。何をしているの。」
慌てた由紀は運転席とを隔てているガラス戸をどんどん叩いて問い質すが、運転手は振り向きもせずに、ただ黙って運転を続けている。
由紀は危険を感じて、横の窓ガラスを下ろそうとボタンを押しつづける。がガラスはぴくりとも動かない。ドアの取っ手も引いてみたが、ロックが掛かっていて、内側からはびくともしなかった。
由紀は何だか不明のガスを止めようと、篭の中に手を入れようとしたが、口にはしっかり錠前が掛かっていて、中の物に触ることが出来ない。
広々としていると思っていた後部室内は瞬く間に、白いガスで充満されようとしていた。由紀はそのガスを吸って咳き込む。そして意識が次第に朦朧としてくるのを感じ取っていた。
(もしや、クロロエーテル・・・)
睡眠剤であるその薬品名を思い出して居た時には、既に意識が遠のきかけている直前だった。
男は都心に入る手前で、首都高のランプを降りた。そのまま海岸沿いの倉庫街を抜け、ひと気のない岸壁まで車を走らせ、人目につかない倉庫の建物の陰にリムジンを停めた。運転席と後部座席の遮蔽は完璧ではあるが、万一の洩れを考えて、運転席の窓を開けて走っていた。勿論後部席のパワーウィンドウのスイッチは切ってある。ドアも内側からは開けないチャイルドセイフティロックを予め掛けておいたのだ。
ガスの栓を抜いてから30分ほど車を走らせていた。由紀はとっくに意識を失ってリアシートに倒れこんでいたが、万全を期す為に、更に暫くそのままで薬が完全に効いて深く寝込んでしまうまで煙草をくゆらせながら待った。それから、後部座席のパワーウィンドウのスイッチを入れて窓を開け、クロロエーテルの残留ガスが抜けるのを、車から少し離れて待ったのだ。
男が再び車室内に戻った時には、クロロエーテルは完全に外気に拡散していた。それを吸った由紀は正体無く寝入っている。強制的に眠らされた為に、軽く鼾をかいている。由紀が身に付けてきた旅行着であるタイトなピンクのスーツの裾は、少し乱れて、腿が半分露わになってしまっていた。男は由紀の意識混濁を確認するかのように、乱暴に由紀の身体を裏返してうつ伏せにすると、両手首を背中に揃えて手錠を掛けた。それから更に念入りにロープを使って後ろ手に縛り上げ、足首もロープでまとめて縛り上げてから、手首と足首のロープを結わえ付けた。それから息が出来なくならないように、鼻にかからないように注意深く、口の上にガムテープを貼り付ける。そうしておいてから、由紀の身体全体がすっぽり蔽い通せる大きな布袋に由紀の身体を押し込み、袋の口をしっかり紐で括り付けてから袋ごと由紀の身体をリムジンの後部座席の前の広い床に転がした。
リムジンが音もなく、岸壁沿いのひと気のない倉庫の裏から走り出したのはそれから暫くしてのことである。
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