妄想小説
牝豚狩り
第二章 半年前
その8
良子は、サングラスの男が客と呼ばれている三人の男達にしている説明を聞いていて、半分パニックに陥っていた。
(自分を現職警察官と知っていて、それを前提としてハンティングの獲物にしようとしている。後ろ手に手錠を掛けられたまま、山へ放たれるのだ。それを男三人が、エアガンなどを手に追ってくるというのだ。)
恐怖に膝ががくがく震える。首を繋がれて吊られているロープが無かったら、その場にへなへなと座り込んでしまいそうだった。
いよいよ時が来て、首輪の縄が抜かれて自由になった時に、まだ本当にこれから自分をターゲットにした狩りが始まるということに半信半疑だった。
(いや、冗談だよ。そんなこと、ある訳ないだろ。)
男がそう言ってくれるのを待っていた。しかし、本能的な危険予知が良子の足を走り始めさせていた。
(男たちのスタートは5分後だと言っていた。一刻も早く逃げなければ。)
後ろ手錠のままでは走りにくい。座って尻から抜けば、前に持ってこれる。が、今は一刻も早く男達から離れなければ、そんなことをしていては捕まってしまうだろうと思われた。
分れ道に出る。(どっちへ行けばいいのだろう。こんな山の中の林道なんて、入ったことがない。)とにかく闇雲に走るだけ走った。後ろで男達がスタートする合図のピストルの音がした。
良子には、林道から逸れて、身を隠すということを思いつくだけの余裕がなかった。ましてや、林道がループになっていて、反対側からも敵がやってくるかもしれないなどとは思いもしなかったのだ。だから、上り坂を峠になっているところまで昇り切って、カーブを曲がって下り道の先にエアガンを持った男が、きょろきょろしながらこちらへ向ってくるのを見た時に、絶望的な気持ちになった。そしてその時、初めて、林道から逸れて、藪の中へ身を隠さなければならないことに思い当たった。丁度そこの場所は、林道から斜面が下っていった辺りに、葦の原っぱがあった。とにかくそこへ身を隠そうと考えた。降りてみると、葦は良子の背より少し高いくらいで、身を隠すには丁度良かった。地面は湿地だったようで、少しじめじめしていたが、そこへ身を伏せた。まだ後ろ手錠だったが、下手に動いては気づかれると思い、そのまま身を伏せてじっとしていた。
やがて、さっき坂の下に観た男が、崖上の林道までやってきたらしい気配が感じられた。
パーン、パーンというエアガンを撃つ音が聞こえる。そのうちの何発かは、良子が隠れている近くにも飛んできた。近くに弾が来るとピシッという音がするので判る。その度に良子は身を縮めた。
暫く音がしていたが、直に止んでしまった。行ってしまったのかもしれないと思ったが、すぐには身動き出来なかった。今のうちに、背中の手錠を尻から抜いて、前手錠にしておこうと思った。良子は背中を下にして寝転がり、脚を上に跳ね上げて後ろ手錠を尻を通そうと試みた。が、手枷の間の鎖は、かなり短いタイプのものだったので、簡単には通らない。あと少しのところまで来るのだが、尻の肉が邪魔をするのだ。今度は身を反転させて、頭を額から地面に付け、膝をついて身を丸くし、両手を思いっきり反り挙げ、ゆっくり尻にそって後ろへ伸ばしていく。
(あと、もうちょっと・・・。)
と思った時、ガサガサッという音が少し離れたところでするのが聞こえた。咄嗟に良子は身を伏せる。ガサガサする音は次第に良子のほうへ近づいていた。どうも叢を探っているらしかった。
草を踏み分けていく音が良子のすぐ後ろで聞こえてきた。
「畜生、あそこであいつに鉢合わせしたってことは、あの先の筈はないから、絶対、どっかこの辺に隠れている筈だんだが・・・。」
男の独り言に、良子は凍りつく。
(あいつというのは、他の二人のハンターのうちのどちらかに違いない。鉢合わせしたということは、道が繋がってループになっているのだろう。両側から追ってきて、鉢合わせしたことで、林道から外れて、道の脇に隠れていることがばれてしまったようだ。見つかるのも時間の問題かもしれない。)
良子は、とにかく今はじっと身を潜めているしかないと思った。運良くやり過ごせたら、移動しなければ危険だと思った。
音が少しずつ離れはじめた。男はかなり焦って探しているのだと良子は思った。あともう少し慎重に探されていたら、見つかっていたかもしれなかった。
男の気配がしなくなってから、そうっと良子は立ち上がった。男の姿は見えない。それでも身を低くして、極力音を立てないように気をつけながら、林道のほうへ戻っていく。
林道まで出てどちらへ行こうかと迷っている時、後ろからパーンという音がして耳元をピシッという音が掠めた。振り向きながらも良子は走り始めていた。林道の向こうの陰から男が立ち上がってライフルのエアガンを構えているのが見えた。外したので男も立ち上がって追いかけ始めたのが判った。良子は元々男がやってきた方角へ走っていった。角を曲がると下り坂だ。良子は不自由な背中の両手のせいでバランスが取りにくく、油断すると転んでしまいそうだった。それでもなんとか坂を駆け下りた。坂の下まで出て、林道が再び昇り始めるのをみて、林道をこのまま走るのは、他のハンターに鉢合わせになるので、道から逸れなければいけないと今度は適確に判断した。坂の下から沢のほうへ向って道はないが、雨水と土砂に流されたような谷間になっているのを観て、そこを下ることにした。道ではないので、すんなりとは走れない。が、ころがった大きな岩や、流された大木の根などが遠くからの視野を多少なりとも遮ってくれる。良子は林道の上から見えないことを祈りながら、ひたすら谷を駆け下りていった。
良子が谷間の坂を折りきったところは別のところから流れてくる渓流の沢に繋がっていた。大きな岩がいくつも山の上からころがり落ちてきていて、そのうちのひとつの陰にひとまず身を隠した。息が切れていた。大きく息をしたいのだが、まわりに聞こえてしまいそうで、そっと息をするのが苦しかった。良子の息が整うより前に、荒々しく砂利を蹴散らして近づいてくる追っ手の足音が聞こえ始めた。向こうもかなり荒い息遣いをしている。しかしそれは疲れよりも相手にあと一歩と近づいたことへの興奮のようだった。
(さっき、葦の原を出た時、きっと待ち伏せをされていたのだわ。やはり最初からあの葦の原に隠れていると判っていたのね。あんな隠れやすい場所なのだもの。迂闊だった・・・。)
男は良子が隠れている岩の前を通り過ぎた。(何とかそのまま立ち去って欲しい)と良子が祈っているところで、男の足音がぴたりと止まった。
良子がそっと窺うと、男は渓流の流れの淵に立ち止まっている。どうやらそこからは、歩いて行けそうもないらしい。良子はその時、男がこの近くに潜んでいるだろうと気づいたのが判った。
良子はその時観念した。このまま逃げ続けていても、体力だけが消耗し、やがては追いつかれてしまうのだと気づいたのだ。
(それより、ここで投降して、こんな馬鹿なことは止めるように説得したほうがいいのではないだろうか。)疲れと恐怖が良子にそんな思いを抱かせたのだった。
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