daydream

アカシア夫人



 第二部 和樹の嫉妬と貴子の迷い



 第二十二章

 へんな夢をみたせいで、その日は朝から和樹の隠し物が気になって仕方がない貴子だった。家中を掃除していたが、和樹の部屋に入るのがどうしても躊躇われてしまう。行けばあの抽斗を意識せずにはいられないからだ。それでなくても、ふと何時の間にか、あの抽斗の中身のことを考えてしまっている自分に気づくのだった。
 (駄目だわ。家の中に居ると変なことばかり考えてしまう。そうだ。気分転換に、カウベルにでもお茶を呑みに行こう。)
 ひとりだけの昼食を簡単に済ませると、山荘に鍵を掛けてカウベルを目指すのだった。
 表の通りに出た貴子は、空を見上げる。雲がどんどん流れていく。風が木々の梢を音を立てて揺らしながら通り過ぎていった。自然と貴子の足は小走りになっていた。

 「おや、いらっしゃい。」
 「こんにちは、マスター。また、いつものお願いね。」
 貴子はマスターの表情が何時も通りなので、ちょっと安心した。店の中を見回してみるが、バードウォッチャーはその日に限って居なかった。その事も貴子を少し安心させる。
 「今日はあんまり天気よくないみたいね。」
 「山の天気は変わりやすいですからね。はい、ダージリンです。どうぞ。」
 いつもの席へいつもの紅茶を持ってきたマスターに、差し障りのない天気の話を持ちかけてみた貴子だった。あれは夢のことで、現実ではないのだと自分に言い聞かせるのだが、気になって仕方ないのだった。

 一時間ほど粘って、貴子は本を閉じた。どうしても本の中身に集中しきれない貴子だった。もう何度も同じ頁を読み返していたのだ。
 (天気が悪くならないうちに帰ろうかな。)
 そう思って、貴子は立ち上がる。
 「マスター。お勘定、お願いね。」
 カウベルの音を立てて、玄関から外に出た貴子の頬を一粒の雫が濡らした。
 (あれっ。)
 木製の階段を降りて、庇の下から道路に出ようとした瞬間にぱらぱらっと雨が降り始め、慌てて、軒の下まで戻る。
 (降ってきちゃったわ。どうしよう。すぐに止むかしら。)
 雲行きを眺める貴子の目に、相変わらずどんどん流れていく薄暗い雲が見える。貴子には山の天候はまだよく読めない。しかし、少しずつ降りは激しくなっていくようだった。
 暫く待っていて、一向に止みそうにないので、マスターに傘を借りに店内に戻ろうとしたその時だった。砂利を踏みしめるタイヤの音がして、一台のジープのような車がブレーキを掛けて停まった。

rangeblack

 「降りこめられちゃんたんですか。こりゃあ、暫く降り続きますよ。送っていきましょうか。」
 貴子が声のほうを振り向くと、バードウォッチャーだった。話をしたことはなかったが、声を聞き分けられたのが不思議な気がした。夢の時の声だと思った。しかし、その直ぐ後、店でマスターと話をしているのを聞いたことがあったので、声を知っていたのだと思い出した。
 (どうしよう・・・。)
 貴子の不安を察したように、男が話しかけてくる。
 「この先の山荘ですよね。あそこまで歩いていったらびっしょりになっちゃいますよ。」
 「ご親切に、どうも。でも・・・。」
 「私だったら、構いませんよ。私も雨になっちゃったんで山歩きを諦めたところです。」
 「ほんとにいいんですか。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら。」
 貴子は一瞬、和樹のことを思い浮かべる。留守中に知らない男の車に乗せて貰うなど、知れたら只じゃ済まないだろうと思う。しかし、夫が帰るのは明日だ。
 貴子は男が中から開けてくれたドアに走り寄って乗り込む。ジープは車高が高いので、乗り込む際に短いスカートの裾が乱れないように充分気をつける。
 「済みません。じゃあ、お願いします。」
 男は貴子がシートベルトを締めるのを待って車をスタートさせた。

sidesit

 「鳥を撮っていらっしゃる・・・んですよね。カウベルのマスターが確かそう・・・。」
 「あっはっは。いや、まあ、そんなところですかね。」
 男は曖昧に返事をする。貴子は何と言っていいか困惑した表情を見せたようなのを察したようだ。
 「いや、写真家というほどのものじゃあないんで。半分、趣味みたいなもんなんですよ。それで、カメラマンとは言わないで、バードウォッチャーって称しているんです。」
 「バードウォッチャー・・・。そんなお仕事があるんですか?」
 「いや、ないです。私が勝手に言ってるだけですから。」
 より激しくなる雨脚に男はワイパーの速さをあげた。
 「岸谷っていいます。この辺は、アカシア平って、言いますけど、私は一山向こうのすずらん平ってとこの奥に棲んでます。」
 「こちらには長いんですか?」
 「いや、まだ2、3年ってとこですかね。」
 「ああ、そう・・・。」
 (私達は越して来てまだほんのちょっと)と言おうとして言葉を呑みこんだ貴子だった。知らない人に家の内情をあれこれ喋るのは、憚られると思ったのだ。かと言って、黙ったままでは、男女が二人っきりで狭い空間の中なので、気詰まりに思われた。
 「あの、カウベルっていうお店。素敵なところですよね。」
 貴子はさり気なく差し障りのない話題に変えた。
 「僕もあの雰囲気が好きでよく行くんですよ。まあ、常連かな。」
 「そうなんですか。あそこのマスター。とても気さくな感じで親しみやすいですよね。」
 貴子は店の話から紅茶の話、珈琲の話と話題を誘導していった。

 「あ、ここでもういいですから。雨もだいぶ小降りになってきたし。すぐそこですから。」
 貴子は山荘へ繋がる私道への入口に差し掛かったところで、声を掛けた。家のすぐ傍まで来て貰うのは避けたかったのだ。
 「そうですか。じゃ、ここで。」
 「ありがとうございました。」
 車を降りると深々とお辞儀をしてから、踵を返して、山荘へあがる私道を駆け抜けていく。本を傘代わりに頭の上へ翳していたが、もうそれほどの降りではなかった。
 「あっ・・・。」
 鍵をショルダーバッグから出して、玄関のほうを見上げた貴子は思わず声を上げた。夫の和樹が立っていたのだ。腕を組んで仁王立ちになり、貴子のほうを睨んでいた。

madam

  次へ   先頭へ



ページのトップへ戻る