アカシア夫人
第二部 和樹の嫉妬と貴子の迷い
第十八章
「貴方、行ってらっしゃい。今度帰ってくるのは明後日よね。」
貴子は車で三日間の嘱託勤務に出掛けていく夫を見送った。まだ未明のことで、漸く東の空が明るくなってきた頃だ。夫が駆っていく四輪駆動のランドローバーの排気管の白い煙の跡だけが朝の空気に残っていた。
夫の車が走り去ってしまったのを見届けると、貴子は朝のうちにゴミを出してしまうことにする。ゴミは別荘地全体で契約している業者が廻ってくるのだが、山荘の前までは来てくれないので、山荘への私道が繋がっている公道まで降りて出しに行かねばならない。
玄関まで予め出しておいたゴミの袋を取りに行き、道路まで歩いて出しにゆく。ゴミは週三回の回収しかないが、夫と二人だけの生活ではゴミの量はたかがしれている。山荘に付属している焼却炉で一部を燃してしまうことも出来たが、有害ガスを発生する惧れのあるプラスチック類は条例で燃すことが出来ない。それらを除いてしまうと、わざわざ焼却炉に火を点けるほどの量のゴミは出ない。結局、ゴミ回収業者に任せてしまうことになるのだ。
道路の端に収集用の籠が設けてある。使うのは今のところ貴子の家しかない。籠は鳥がついばんだりしないように設けてあるものだ。不思議と都会のようにカラスがやってくるということがない。鳥に啄ばまれないようにするというのは、自然の鳥獣類が不用意に人間が残した不燃物などを呑み込んで殺すことがないようにという配慮からのことらしかった。カラスが居ないのは森には蛇が多いので、カラスの卵を狙ってくるので、数が増えないのだとも言っていた。全ては入居する際に、不動産業者から聞いた話である。
自分の家一軒分だけのゴミを収集籠に残すと、貴子は家に戻ってゆく。その場所からは木立が邪魔をして山荘は見えない。逆に山荘からもゴミ収集場は見えないので、貴子は業者がどんな収集車を使っているのかも知らなかった。
貴子が立ち去ってすぐに、藪の中から人影が現れる。誰も居なくなったのを確認してから、ゴミ収集場へ静かに近づいてきた。中からゴミの袋を取り出すと袋を開け、中を物色している。そして徐に、男が目当てにしていたらしいものだけを拾い上げる。それは中身が一見して分からないように、二重にスーパーのレジ袋で念入りに包み込まれているので却って識別しやすくなっていた。貴子が今朝方、自分専用のトイレから取り出してきた汚物入れの中身だった。貴子は毎回、それが抜き取られていることなど知る由もないのだった。
家に戻った貴子は、かねてから決意していた行動に入る。今度、夫が出勤で出掛けたら家中の家捜しをしようと決めていたのだ。捜す物は和樹が出張旅行から持ち帰った後、いつの間にか無くなっていたあの紙袋だった。
貴子は和樹があの後、何処かへ隠したのだということは確信していた。探す場所もあらかた見当が付いている。普段から家の掃除は貴子がするので、和樹が隠せる場所は限られているのだ。貴子がメインに使う居間や台所の筈はなかった。和樹の寝室か和樹専用の書斎ぐらいしか考えられない。しかも、衣類をしまうクローゼットなどは、洗濯屋から戻ってきたものを貴子がしまうので、和樹が隠す場所に使うとは思われなかった。ベッドの下なども貴子が掃除機を掛けるので、隠す場所としては相応しくない。
山荘には貴子と和樹それぞれ専用の寝室と書斎が作ってあった。山荘の設計時から決めていたことだ。寝室を分けるようになったのは、最初の子供が出来た時からだった。授乳で夜中でも何度も起きるので、自然と部屋を分けて寝るようになったのだ。そういう生活に慣れてしまうと、子供が大きくなっても一緒の寝室にはなかなか戻れない。夜の営みは夫が貴子の寝室に忍び込んでくるという形に自然となっていったのだ。だから夫の寝室は掃除をする時ぐらいしか入らない。しかし、毎日ではないにせよ、普段から掃除をしていると、何か隠し事をしていればすぐに貴子には判る。
書斎はそれぞれが書き物などをする際に使っている。貴子の部屋は文学系の蔵書で溢れていて、所謂書斎らしい書斎だ。書棚には文学全集などがずらりと並んでいる。一方の和樹は読むのは新聞ぐらいで、殆ど読書をしない。書棚にあるのは、和樹の趣味であるスポーツやその関連用品の雑誌類やカタログなどが殆どで、それらのものが雑多に並べられている。入居の際に夫婦で夫々、同じタイプの机を購入した。書き物をする際に使うつもりで抽斗があって小物などはそこにしまってある。抽斗にはひとつだけ鍵の掛る場所があるのだが、貴子は普段鍵など掛けていない。それは和樹も合鍵を持っている筈だからで、夫婦二人の生活で鍵を掛けても意味がないからだ。しかし、貴子は和樹の抽斗の合鍵は持っていなかった。鍵が掛っているかも確かめたことすらなかった。
その抽斗に手を掛けてみるまでは、どきどきした。これまで掃除の際にも触れてみたこともなかった。その日は、和樹が居なくなるのを待って、自分一人しか居ないことを確認した上で、こっそり忍び込むようにして和樹の書斎に入り、抽斗に手を掛けたのだった。
抽斗は案の定、鍵が掛っていた。他の場所はもう敢えて探す必要がなくなったようなものだった。
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